Re-FRAME

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此岸から宮島を臨む

(一) 

 フェリーの甲板上の足元からゆっくり顔を上げると、視界には海が飛び込んできて、海のその最奥に朱色の鳥居が見えてきた。鳥居の背後には黒に近い緑を纏った山容が広がっている。宮島だ。

 「宮島」という名称と「厳島」という名称のどちらが正しいのか、あるいは区別があるのかと事情を知らない人は迷うのだが、調べるとどちらも正しいらしい。

 元々は「厳島」そのものが神とされており、やがて厳島神社ができる。「宮島」は「そのお宮さん(神社)がある島」という俗称から広く流布され、今日に至っている。「厳島」という文字通りその厳めしい尊称と違って「宮島」という響きには、何やら地元の人たちの愛着の念や生活感がにじみ出ているようで面白い。“響き”と先に書いたが、「いつくしま」と比べて、濁音が含まれる「みやじま」には、親しみやすさがまるで違うように感じられる。

 島嶼で国土が成り立つ日本において、お宮がある島は一体どれほどあるのだろうか。湖畔に浮かぶ島も忘れてはいけない。それだけ無数にある“宮島”なのだが、私たちは「宮島」と聞けば、この「安芸の宮島」をまずは頭に浮かべる。「宮島」という、言うなれば代名詞が圧倒的な知名度によって固有名詞に昇格したと言えなくもない。まことに厳島神社のご加護というほかない。

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Photo 写真AC https://www.photo-ac.com/ Special thanks to taya27muさん

 (二)

 さて、厳島神社である。現在の寝殿造りの社殿に修造したのは平清盛で、仁安3年(1168年)のことだった。ここで書きたいのは、厳島神社の御由緒でもなく、平清盛がなぜ寝殿造りの社殿を作ったのか、その政治的、軍事的、宗教的、あるいは海上交通における必要性のことではない。その辺りのことは、各専門諸氏による著述を読んで頂きたい。

 私が書きたいのは、眺望から受ける感応のことである。これはあくまでも私個人の感性から生じる捉え方なので、理屈立てて証明していく話でもない。そのため、人が共感できなければそれまでだし、強要することでもない。しかし、だからこそ発想を自由に、何の制限もなく、私のまま書き記すことが許されるのではないだろうか。さらに言えば、誠に勝手ながら、ひょっとして清盛公もそんな風に感じたのでないのかと、一人想像を逞しくしている。

 清盛公依然の社がどんなものだったかを私は知らない(勉強不足をお許し願いたい)。ただ、島全体が神域だったため、陸地は恐れ多いとのことで、潮の満ち引きする場所に社があった。清盛公はここに社殿を建てた。もちろん、権力も財力も、あるいは建築後に誇示できる野心といったものがなければ建てようと思っても建てられるものではない。しかし、そんな平家一門を率いる長としての重要性だけでなく、此岸から海を挟んで宮島を臨んだときの感応から、言ってみれば「寝殿造りの社殿を海上に造りたい」といった衝動に近い思いが含まれていたのではないかと、想像を飛躍させてみた。

 

(三)

 宮島の対岸にあたる宮島口ほか陸地は、現在よりもっと山地に奥まっていたであろう。しかし、だとしても、岸から宮島を臨んだ距離の近さは印象上、現在とあまり変わらないのではないかと思われる。

 加えて視界の両端にまで海は横たわっているわけだが、眼前の宮島の山容が海と並行して続いているので海の広さが感じられない。海というよりも大きな川という印象だ。例えるなら、どこか「箱庭」的な眺望なのである。現在はフェリーで10分ほどで海を渡ることができるのだが、途中、海上に目をやると牡蠣の養殖いかだがぎっしりと並んでいた。「川幅」はよけい狭く小さく感じられた。

 潮の流れは感じられなかった。もちろん、流れていないわけではないのだろうが、私が渡ったときは潮の干満や前日の天候も影響しているのであろうか、満々と海水が満ち満ちている感じだった。例えるなら、コップに水をいっぱいに注いで、コップの口から表面張力の水面が出るか出ないかの、そんな水量をこの海に感じた。言葉で表すなら「横溢」という語が頭に浮かぶ。

 古来神域とされた島、その眼前に横たわる満々と水を湛える海、そして両手を広げて左右いっぱいに伸ばせばその神域の全てを抱えることのできそうな箱庭的な景色。この広大とは決して言えないスケール感こそが、平清盛公をして後の世界遺産を造らせる刺激になったのではないかというのが私の想像だ。そして、このスケール感は「海上寝殿造りの社殿を造る前代未聞の建築工事は完成できる」という確信をも育ませたと私は見ている。

 実は清盛公は既に応保2年(1162年)に厳島神社の改修よりも先だって大規模な土木工事に取り掛かっている。現在の神戸港大輪田泊での港の建設である。日宋貿易で利を得るためには、大型船が出入りする港が必要だった。台風による頓挫を味わいながらも、厳島神社改修に着手するまでの間、土木技術が蓄積されていったことは間違いない。

 安芸の国守時代に清盛公が崇め、慣れ親しんだ厳島をより壮麗にしたいという信仰心と、天然自然の景色に人知を加えたいという衝動が織り重なった事業がこの厳島神社の社殿造りだったのではないか。

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Photo/写真AC https://www.photo-ac.com/ Special thanks to AC PHOTOSTUDIOさん

広島県呉市音戸の瀬戸公園、平清盛日招き像。音戸瀬戸が呉市警護屋(けごや)と対岸の倉橋島の間にある海峡で、海峡掘削工事を予定通り進めるため、海に沈みかけた太陽を金の扇で仰いで、太陽を呼び戻した伝説がある。

(四)

 結びに入る。

 箱庭的な眺望から事業の可能性を見出し、厳島神社を改修にとりかかった清盛公は当時51歳。病に倒れ、死を覚悟した清盛公は出家。人生を清算する事業のはずだった。

 だが幸いに、病を持ち直した清盛公はその5年後の承安3年(1173年)、大輪田泊で波浪を軽減するための人口島・経が島を竣工(竣工期には諸説あり)。父・忠盛が財を築いた日宋貿易をいよいよ活性化させていく。その後の歴史については、古典『平家物語』やドラマ、映画でみなさんがご存じの通りである。

 現代という此岸から、文字として記録されていない歴史上の人物の心象を覗くなど、何の根拠も理由もない行為だが、ただ同じ人間であるという共通点から自分の想いを相手に託してみることは愉快なことである。自分はこう想うが清盛公はどうでいらっしゃったのかと会話しているような気持ちになってくる。

 

 宮島に足を踏み入れると、様々なお店が観光客を手招きしている。歴史に「if」を持ち込むのは愚行ではあるが、清盛公が厳島神社の社殿を造らなければ、神域は神域として今とは違った風景の宮島であったかもしれない。少なくとも、宮島の「西の松原」にある清盛神社(創建は昭和20年・1945年)はなかったであろう。