Re-FRAME

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D・カーネギー『道は開ける』を読んで、遠藤周作に思いを馳せる

(一) 

 D・カーネギー著『道は開ける』は「あらゆる人間に共通する『悩み』の実態とそれの克服法を述べたものである」(「訳者まえがき」より)。カーネギー自身がその生い立ちや中々売れなかった役者時代など悩み多き人生の中で、「悩み」に対してどう取り組むべきなのかを古今の書物、人へのインタビュー等々を重ねてまとめた著作である。読み終えて、私自身の悩みへの対処法の指針となる素晴らしい著作だったと心から感謝している。

 しかし、一つの違和感も同時に生じている。それは著作の中で「悩み」の在り様、受け止め方が人生において「無駄」であり、「克服すべき事柄」あるいは「破棄」「忘却」すべきこととして繰り返し書かれているからだ。克服した人が素晴らしい学びを得たこと、その後の人生が幸せになったことで、「悩み」を振り返って「感謝する」例も多くあるが、基本的には自身の身体の外へと追い出すことが悩み克服法として主張されている。

 日本人である私はそれを「西洋的」だと直感的に思った。では、私のその直感は何を拠り所として浮かんだ感覚なのかを自問した。すると遠藤周作が心の中で浮かんできた。

Photo 世界的大ベストセラー。初版は1948年。すぐに54万部売れ、世界中で出版することに。図書館や書店でこの表紙をご覧になった方も多いはず。原題は『How to Stop Worrying and Start Living』

(二)

 クリスチャンである遠藤周作には終生のテーマの一つに「東洋と西洋の分断」があった。ごく大雑把に述べると「一神教で父性的なキリスト教」の教義に対して、遠藤自身の内から湧き上がる思い、「多神教で母性的」な宗教観との断絶だった。この悩みが彼の人生を貫き、数々の名作を生み出す原動力となる。

 彼の著作の中で描かれる悩みの在り様は「克服」すべきことではなく、「寄り添い」「労わる」「慈しむ」イメージだ。ここでいう「悩み」という言葉はそのまま「神」と置き換えても遠藤の世界ではかまわない。そう「悩み」を「神」と置換できるならば、それは克服すべきことではなく、しっかり自己に内在するものとして向き合わなければならない、いわば「信仰」にも相通ずるものだった。

 ここで唐突だが、「東洋的な悩みの捉え方」の一例として、浄土真宗の開祖である親鸞聖人の教えを説いた『歎異抄』もご紹介させていただきたい。

 

 我々は信心が決定した際に往生させていただける身になる(現生正定聚・げんしょうしょうじょうじゅ)のだ。そして臨終で罪や煩悩を消さなくても、罪や煩悩がそのまま悟りとなるのだ。

(太字は作者注。釈撤宗 100分de名著『歎異抄 信じる心は一つである』2017年 NHK出版)

 

 宗教学者ではない身なので言葉の持つイメージとして「信心≒悩みと向き合う心」「悟り≒幸せ」と勝手に置き換えてここで引用してしまった性急さを親鸞聖人と『歎異抄』の著者・唯円にお詫びしたい。

  D・カーネギーの著作の中ではこうした考え方・捉え方は感じられなかった。そこに私の感じた違和感の理由がある。改めて述べるが西洋と東洋のどちらが正しい・間違っているのかという話ではなく、私が感じた双方の違いについてのことである。決してカーネギーと『道を開ける』を貶めるつもりはないとことわっておく。

Photo 遠藤周作の著作群で描かれるキリストは奇跡を起こす救世主ではなく、人々の痛みに寄り添う存在「人生の同伴者」として終始描かれている。

(三)

 私の違和感について「西洋と東洋の断絶」という解釈を前述したが、カーネギーと遠藤の著作でいえば「悩みの種類」が違うのではないかとも指摘しておかなければならない。

 遠藤周作という人間を理解するのに不可欠な価値観として忘れてならないのが「生活と人生」という言葉だ。遠藤曰く、「生活と人生は異なる」。生活は生きるための営み、人生は日々の生活とは異なる高次元に存在する、生きる意味そのものが問われる試練だと私は理解している。

 『道は開ける』で述べられている数々の悩みは、この「生活」にあたる悩みなのではないか。カーネギーの収集した事例の中では病に伏せた多くの人たちが登場するが、神経を落ち着かせ、あるいは睡眠を取り、または真逆に忙しくさせることで彼らのほとんどは回復する。もちろん、著作の趣旨が『道は開ける』である以上、病に倒れた人たちを紹介するわけにはいかないのかもしれないが。

 一方で遠藤の代表作『深い河 ディープ・リバー』で出てくる主要な登場人物全員はそれぞれの「人生」を抱え、悩み、ヒンズー教の聖地・ガンジス河へと誘われていく。物語の詳細は割愛させて頂くが、登場人物のいずれもがその「人生」に答えを見出したというよりも、抱えながら生きていく、あるいは死んでいく構成になっている。

 このように書くと、私が「カーネギーが人生を生きていない」と指摘しているように思われるかもしれないが、そうではない。彼は多くの「生活」で苦しむ人たちに向けて救いを差し伸べるため、類まれな情報収集力と構成・編集力で大ベストセラーを書き上げた。そして、国境・文化・時代を超えて、多くの人たちに生きる希望をもたらし続けていると、私はより深く理解できた。そしてそれと同程度において、私には遠藤の言う「生活と人生」が歴然と峻別され、私たちの一生を構成していることが理解できた。

 

 人は誰しも悩みを持っているが、私の場合、その悩みが「生活」でしかないと知った時、心持ち身が軽くなったような気がする。私はこれまでに「人生」にふれたことがあったであろうか、この先「人生」にふれることは何度あるだろうか?いや、受け身ではなく、自ら問い続けて行くことで、新しい自分が見えてくるのかも知れないと思った。

 

Photo 写真AC https://www.photo-ac.com/ Special thanks to うえにーさん 「信じられるのは、それぞれの人が、それぞれの辛さを背負って、深い河で祈っているこの光景です」(中略)「その人たちを包んで、河が流れていることです。人間の河。人間の深い河の悲しみ。そのなかにわたくしもまじっています」遠藤周作『深い河 ディープ・リバー』(十三章「彼は醜く威厳もなく」)1996年 講談社