(一)
加賀百万石祈願所、日蓮宗/正久山妙立寺(みょうりゅうじ)。またの名を「忍者寺」と言う。妙立寺に忍者がいるからではない。「忍者屋敷のような」お寺という意味だ。建立したのは加賀藩三代藩主・前田利常。寛永20年(1643年)に金沢城近くから移築して現在に至る。
「忍者屋敷のような」とはどういう意味か。当時江戸幕府は3階以上の建物を禁止したが、妙立寺は外観は2階建てだが、内部は4階建て7層になっている。中2階、中々2階など複雑な構造の中に部屋数が23、階段数が29もあり、まるで迷路のようだ。
そして、忍者寺の所以となる数々の仕掛け。本堂正面入り口にある賽銭箱は箱が見えない。というのも畳の床が1か所空いていて、そこに賽銭箱が埋め込まれている。落とし穴としても利用できるようになっているわけだ。庫裏の中心にある井戸には横穴があり、金沢城まで続く逃げ道になっているという伝説もある。まだまだ仕掛けは尽きないのだが、この辺りで割愛させていただく。
では、なぜこのような寺を利常公は建立したのか。当時は3代将軍・徳川家光の治世で諸大名への引き締めが厳しく、藩の取り潰しも行われていた。そこで加賀藩として万が一の有事の際に金沢城を守る拠点として、妙立寺を戦場の監視所あるいは出城として建立した。そもそも妙立寺周辺には他にも数々の寺院が建てられており、一帯は寺町として整備されている。金沢城に押し寄せる敵軍を迎え撃つ防衛ラインとして、多くの武士が起居できるこの寺町を築く必要があったのである。
(二)
金沢城を守る軍事防衛拠点として妙立寺を見立てるなら当時の加賀藩と幕府との関係性や時代の空気が感じられ、どこか物々しい気もするが、実際の忍者寺を尋ねると不遜ながらどこかアトラクション施設のような印象は拭え切れない。そもそも敷地面積にさほどの広さがない。建物自体はおよそ5分でぐるりと周囲を歩き周れてしまう。攻めてくる敵に対する数々の仕掛けは見事だが、果たして何人の武士がこの寺に守備隊として籠れるというのか。そして、敵兵の侵入を許すという戦の最終局面、数的にも圧倒的不利な状況下でこの仕掛けでもって敵を撤退させることはかなわないのではないかと、初陣すらままならない素人ながらそのように想像してしまう。由緒正しき寺院ながら、誤解を恐れずに言わせてもらえるならば、私は外連味さえ感じてしまう。
藩の存亡をかけた切り札としての出城というより、藩主が「ここに落とし穴を作ってはどうか?」と尋ねれば、設計者は「いやいやいや、そこまでやりますか?」と笑いながら楽しみながら設計して建てたように思えてしまう。どこか三谷幸喜の脚本を思わせるような“ノリ”が重ねに重ねて建てられた建物ではなかろうかという感想を持った。
(三)
私のこの印象はあくまでも私個人の印象であって何の根拠もない。私が簡単に調べた限りではそのような話は出て来なかった。ただ前田利常公には「傾奇者」としての説明が散見した。そもそもその父・藩祖である利家公も若い頃は傾奇者だったと言われている。「傾奇者」という言葉は説明するだけでもブログが1本書けてしまうほど、深淵な言葉でここでは触れないことをご容赦いただきたい。
利常公の数々の傾奇者としてのエピソードの中から1つ紹介するなら「鼻毛」の話がある。鼻毛が伸びきっていることを家臣がどう伝えようかと苦心していると、わざと伸ばすことで阿呆を演じ、幕府の目を欺き、謀反がないことをアピールしているのだと利常公が伝えた話が今に残っている。幕府との緊張関係が窺えるエピソードというより、どこか幕府を嘲嗤(あざわら)う利常公の性格が垣間見えて面白い。
傾奇者としての大芝居をうった(と私が感じている)この忍者寺が戦火を交えることなく、令和の時代まで残った。今なお多くの観光客にこの妙立寺が好奇のまなざしを向けられていることは傾奇者・前田利常の本懐ではなかろうかと独り合点してしまっている私がいる。