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仕事には貴賤があるから平等を叫ぼう

 仕事に貴賤を感じてしまう自分が嫌だった。だが、結論から言うと貴賤はある。その貴賤を認めた上で「仕事は平等である」ということをここでは書きたい。「仕事には貴賤がある」ことを否定したいがために、「貴賤がない」と声高に叫ぶこと自体、もう既に「貴賤がある」ことを認めてしまっているようなものだという、言葉遊びのような結論に私は至った。

 例えば、前提として「仕事に貴賤はない」と考えているとする。次に、仮定として「米国大統領と名古屋市市長どちらが貴いのか」と考え、前提を立証しようとする。だが、この2者の貴賤を投げかけた時点でもう既に大統領と市長は事前に比較され、「大統領がエライ」と認識されているのではないか。それはもう貴賤があると認めてしまっている。

 一方で違う例えを挙げるなら河原の「石ころ」とその裏に生えている「苔」。この2者に貴賤は決められない。判断者が何か基準を設けるか、あるいは自分の好き嫌いで勝手に決める。人によって判断は異なるだろう。

 先の大統領と市長の貴賤の問いに対して一般大衆の大多数が「大統領が貴い」と答えるのであれば、その事実を前に「いや、それは間違っている。貴賤はない」と主張するのは綺麗事に過ぎない。だから私は仕事の貴賤を認めるに至った。しかし、それでもなお「仕事は平等である」と私は主張する。それは森博嗣著『「やりがいのある仕事」という幻想』(2013年、朝日新書)という一冊から学ばせてもらった。

 このように書くと紹介した著作には「仕事に貴賤はある」と書いてあるように思われるかもしれないが、その逆で「まえがき」の「職業に貴賤はあるか」という章に「そもそも、職業に貴賤はない」と断定している。その根拠についてはここでは引用しない。また、私が「貴賤はある」と考えた経緯も既に述べた。どちらが正しいかを争うつもりもないし、それは読者それぞれに考えて決めていただきたい。

 ただ、私が学ばせてもらったのは以下の箇所だ。

 

 階級社会というものが世界のどこにでもあって、そこでは自由に職業を選択できない。日本でいえば、かつては武士は武士であるし、農民は農民だった。どんな仕事に就けるかが、差別の対象となっているわけだ。勝手に職業を変えられては、社会の秩序が崩れてしまう、と考えられていた時代だった。

 本当に、つい最近までそうだったのである。(中略)数十年まえまで、そういう社会は世界のどこにでもあった。実は今でも、まだどこにでもあるけれど、先進国では少なくとも憲法というものができて、「人は皆平等である」と定められた。そもそもこのように憲法というものを持ち出さないと守れないほど難しい認識だった証拠でもある。

 森博嗣「第1章 仕事への大いなる勘違い」『「やりがいのある仕事」という幻想』(2013年、朝日新書

 

 大雑把に言えば、「人は皆平等ではない」からわざわざ各国の最高法規憲法に「人権は皆平等だ」と謳っているのだ。「差別」や「貴賤」という言葉は既に現実社会に存在していた古い言葉であり、それに対して「平等」という言葉は従来はなかった新しい言葉として誕生したのではないか。それはおそらく「人権」や「自由」「平等」が叫ばれたフランス革命前後に生まれた言葉であり、概念なのだろう。(「おそらく」「なのだろう」と推定した書き方をしているのは、「平等誕生」は本ブログの趣旨ではないため、詳細に調べることは放棄することを断っておく。歴史の教科書で得た知識の範囲で書かせてもらった。)

 この「平等」という概念が発生した歴史を踏襲して、本ブログのタイトルである『仕事には貴賤があるから平等を叫ぼう』につなげたい。私は「貴賤がない=平等」と考えることができなかった。どうにも理想論に思えたからだ。だが、森博嗣氏の著作をきっかけに納得できたの「貴賤がある→平等」という工程を踏むことだった。いわば「仕事の貴賤観」をそのまま認めた上で、だからこそ平等でなければならないと訓戒することが本当に大切なことだと私は思う。

 『「やりがいのある仕事」という幻想』にもいくつかの職種間での「貴賤がない」例が書かれていたが、極端に言えば社長も新人社員も平等なのだ。それぞれ役割が違う、仕事が違うだけで平等であるべきなのだ。仕事が違えば当然成果が変わるわけで、会社に対する貢献度も異なる。でもそれだけだ。会社の指揮命令系統を明確にするため、上司・部下と階級が決められるわけだが、それは貴賤とは別の話だ。そして、さらに会社業績への貢献度によって給与は決まるべきである。そこにはやはり貴賤は関係ない。例えば社長という椅子に座して何もしない人物であれば、新人社員より給与は低くなければならないと私は考える。

 

 仕事観における「貴賤」の存在をまず自覚すること。そこから「貴賤」を否定して「平等」であることを自らに、周囲に戒めることで社会は今より間違いなく生きやすくなる。会社や仕事、組織を貴賤で捉えるから主導権争いに明け暮れたり、ハラスメント事案、いじめなどにつながるのではないか。平等であれば、互いの仕事に敬意を持つことができる。互いの仕事を尊重できれば双方にとって最適化された工程やコミュニケーションで業績を収めることができるのではないか。

 「仕事の平等」という概念は働く現場や実務だけに有用なのではない。A社・B社・C社と会社規模や業績、企業イメージが異なる中でどこに勤めているかと尋ねたとき、あるいはどこに就・転職したいかを考えたとき、「貴賤」の概念が頭のどこかにありやしないかと。どの会社も同じではないが平等だと理解できれば、本当に自分のやりたいことや自分が大切にしているライフスタイルを基準に会社選びの選択肢が増え、働くことができる。また、各国政府も仕事の平等を守護し育成に努めれば、民間をコントロールし税金を徴収することだけに注力しなくなり、国民主権の政治につながると考えられる。

 自分の上司に対していきなり「あなたと私は平等だ」と宣言しても煙たがられるだけだろうし、実現したければそれこそ革命なり、“倍返し”でも起こさなければならない。だが、少なくとも私は上司や同僚、部下、取引先と接する際には「仕事には貴賤があるから平等でいこう」の精神で働きたいと思っている。

参考文献:森博嗣『「やりがいのある仕事」という幻想』(2013年、朝日新書