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安土城で見つけた信長と職人の攻防

 安土城の説明は省略させていただく。旅先で訪ねたときの話を書きたい。

 本能寺の変後、次の天下の趨勢を決める明智光秀羽柴秀吉が争う山崎の戦い後まもなく、安土城は消失してしまう。理由は諸説あるが今だによくわかっていない。現在、城跡には天守閣跡まで続く大手道と呼ばれる石段があり、観光客が登れるように整備されている。その道に沿って建てられた信長配下の武将屋敷跡を訪ねるだけでもその規模が感じられ、往時を偲ばせてくれる。安土城東口・料金所より入城して登り始めてすぐ、秀吉の屋敷跡があり、「前田利家邸はここ」「織田信忠邸はあそこ」と当時の織田家の序列が感じられた。また、安土の山の木々や鳥のさえずり、季節によっては蝉の声、秋虫の音などが、過ぎ去った時の長さによって育まれた自然のように思えて興をそそられる。

絢爛豪華な安土城だったからこそ、天守が復元されない城跡として残っていることに 個人的には趣を感じる。 Photo 写真AC https://www.photo-ac.com/ Special thanks to あけびさん

 安土城のメインストリートとも呼べる大手道は幅が広く、6mもある。その石段を登り始めると、端に何やら看板が置かれているのを目にした。看板には「石仏」と書かれており、簡単な解説が書いているものもあった。その看板の前や横の石段は何やら凸凹して、周囲の石段とは異なる。だが、長い年月の風雨にさらされ摩滅してしまい、何の跡だが判然としない。疑問に思って解説に目を通すと、背筋が冷たくなった。

 

 安土城築城工事の際に石垣や石段の資材が足りないため、周辺の村や町から墓石やら石仏が使用されたと書いてあった。人や馬が行き来する足元の石段に石仏が利用されていたのだ。

 令和に生きる信仰心の薄い自分でも、思わず眉をひそめた。脳裏に浮かんだ言葉は「第六天魔王」。天台宗の総本山の延暦寺を焼き討ちした信長らしい所業だと思った。とはいえ、築城を任されたのは丹羽長秀。信長の指示か、あるいは工期に間に合わせるための長秀の手配で行ったのかはよくわからない。ただいずれにしろ、信長の合理主義かつ神仏と敵対することを恐れない信長の精神性とは何ら矛盾しない石仏の石段に私には感じられた。後になって知ることだが、石材確保のために石仏や墓石、石臼を用いた城はほかにもよくあるそうだ。また、一種の魔除けの意味合いもあるのだとか。

安土城の大手道石段に石仏が敷かれていることは現地で初めて知ったので、本当に驚いた。 Photo 写真AC https://www.photo-ac.com/ Special thanks to あけびさん

 登りながらあることに気付く。所々にある石仏のほとんどが幅広い石段の端。しかも、仏が刻まれていたであろう表面を上にして人の目に見えるようにしてある。これはどうしたことだろう。

 文献資料などで確認できなかったが、私の直感はこう囁いている。石仏が人に踏まれるのが忍びなかった職人ができるだけ通行量の少ない端を選んで施工したのだろう。そして、そこに石仏があることを知らしめるために、敢えて表面を上にした。裏面を上にして仏様を下にして土に埋めて石段に使用すれば、人はただの石として呵責なく踏んで歩くだろう。中央に設置すれば人はそこを避けて通らなければならないし、信長であれば無視して踏み登ってゆくだろう。石仏を端に置き、仏身を天に向けたことは仏への信仰心からなのか、工事をした自分への天罰を恐れてのことか。あるいは職人の手配ではなく、その上長であった管理者による指示かもしれない。

 

 そして私に残された最後の想像の楽しみが「信長はこの石仏に気付いたかどうか」。駕籠か騎馬かで登り降りしたであろう信長が、この端にある仏を目にしたかどうか。注意深い人なので(あったことはないが)、あるいは目ざとく気付いたかもしれない。安土城完成後は隅々まで内覧して目にした機会もあったかと想像もできる。

 さらに、石仏を見たとしたら信長はどう思ったか。苦笑して赦したか、眉一つ動かさず心中に一滴の波紋も残さず無視できたか。彼がどちらでふるまうにしろ、なぜか織田信長という強烈な個性を前にして「信長らしい」と、人は印象を持つであろう。

 

※城に用いられる石仏の背景には諸説あります。

 私の主観と想像を逞しくして書いています。