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アメリカにとってゴジラは神たり得るのか 『ゴジラ―1』の私的所感

(ネタばれ含みます)

 前作『シン・ゴジラ』に続き、最新作『ゴジラ-1(マイナスワン)』でも東京は蹂躙され、作中で日本人は何度も絶望に叩きのめされる。全ゴジラシリーズを鑑賞した私の所感としてこの2作品はこれまでのゴジラ映画とは一線を画している。

 日本人にとって『シン』と『マイナス』ゴジラは災厄の象徴として描かれているのではないか。もはや生物・怪獣という範疇を超え、鬼神にすら私には感じられた。そして、この印象は私だけのものではなく日本人であるなら共感して頂ける方もいるのではないかと考えた。汎神論的日本人的なこの印象は、海外の人にも伝わるのであろうかと疑問に思い、しばし書いてみたい。

 

一.シンゴジラとマイナスワンゴジラの特長

 人類側から見れば「巨大生物」としか認識しようがない存在だが、その形状・生体は生物の常識を超えている。ゴジラが映画作品であるため、「常識を超えている」と表現しても「それはフィクションだから」と片付けられるのだが、ここでは映画作品に没入して、作品内で生きる人間の一人として考察したい。

 シンゴジラでは第一形態から第二・第三と短期間で急激に進化。さらにヤシオリ作戦による凍結したゴジラの尻尾先端部には人型と思わしき、数体の生物が誕生しようとしていた。また背びれや尻尾先端部からの放射熱線照射は、口からの照射と比較して理解の範疇を超えている。そもそもなぜ口からあれほどの破壊力を伴う熱線が出るのかもわからない。だが、わからないなりに「体内で派生するエネルギー」「体内とつながる開口部」「呼吸機能」からまだ辻褄の合う(?)攻撃だが、どうして熱線が尻尾の先や背びれから出るというのか(ゴジラファンには度肝を抜かれたシーンだった)。

 マイナスワンゴジラでは放射熱線照射時に、背びれがまるで銃のトリガーのような働きをしていた。映画のラストでは頭部が吹き飛ばされ、深海に沈むゴジラだが蘇生しようと動き始める(ゴジラ映画エンディングのお約束ではあるが)。

 物理攻撃によるダメージによってゴジラは活動を停止するが死には至らず、生物の常識外の存在として描かれている。そして廃墟とかした東京に、日本人なら大火や地震津波先の大戦による空襲を想起してしまう。甚大な災厄を前に、私たち日本人はどうしてこうなってしまったのかとその意味を考えてしまう性質がある。生きとし生ける物はもちろん、命ない万物にも神を感じ取る汎神論の世界で生きる我々にとってゴジラは形而下としての存在だけではなく、形而上の災厄の象徴としてみてしまう。

 

二.アメリカ映画における“災厄”の類型

 さて、次にアメリカ映画にとって災厄とは何かを考えてみたい。全てのアメリカ映画を鑑賞・検証したわけではないので、ごく大雑把に私の主観でアメリカ映画に出てくる“災厄”を類型すると、3類型に分類したい。

1.ヒト型

 テロリストや犯罪者、『バットマン』に出てくるジョーカーといった“怪人”系、「何かと戦わない映画」なら家族や友人、学校の先生も災厄・悪役になりえる。

 私の場合、このヒト型に宇宙人やホラー映画の敵役も含まれる。ヒト型というのは知的生命体や“元”知的生命体、知的生命体に値するロボットも指し示している。トランスフォーマーもゾンビもジェイソンもターミネーターもプレデーターもダースベイダー郷もヒト型に分類する。

2.自然型

 アメリカ映画にも自然災害は容赦なく襲い掛かる。隕石、竜巻、火山、ウイルス、寒冷化など。『タイタニック』は自然型に分類してもいいのでは思うが、どうであろうか。

 キリスト教では「自然」は「野蛮」であり、「神の恩恵の届かぬ領域」であるため、人はこの自然を克服しなければならないという考えが基本的にある。人知を介して自然をコントロールすることが人の使命であるというのが根幹にある(あるいは最近の自然破壊により変化しつつあるかもしれないが)。

 それだけに自然災害を何かの象徴、超自然的な存在による何かの発露とする表現はあまり見られない。自然と分類しておいて「超自然」という概念を使うこと自体、矛盾しているのだが、日本人に見られるような自然災害に意味を持たしたり、何かの意思を感じることはないのではないか。「このままではまた災厄に襲われるのではないか」といった余韻を残す映画のラストもよくあるが、それは“何かからの警告”ではなく、“リスクヘッジ”として描かれている印象を持つ。

3.ゴースト型

 一神教キリスト教では神と人が中心であり、その外円に悪魔やゴーストが存在する。このゴーストは日本で言えば荒ぶる神の位置づけではなく、妖怪に近い。神より下等であり、人間からも怖れられるというよりも迷惑がられる存在だ。文字通り『ゴーストバスターズ』のキャラクターがそれにあたる。

 

三.アメリカ映画におけるゴジラのポジション

 結論から言えばゴジラは「2.自然型」に分類される。『ジェラシック・パーク』に出てくる恐竜と同じ扱いと私は見ている。恐竜をはるかに超える巨体、放射線によって備わった特殊能力・生命力は激越だが、あくまでも手の付けられない生き物。それがハリウッド版のゴジラ作品を鑑賞した私の印象だ。

 「GODZZILA」と表記したとき「神(GOD)」と記されているが、日本人が感じる「畏怖」の念はハリウッド版ゴジラの登場人物にはそれが欠如しているように見える。そこにあるのは「恐怖」だけではないか。

 キリスト教圏では「神」は1体しかない。それだけにアメリカ社会において、ゴジラは神たり得ない。しかし、映画製作陣の卓越した企画力と表現力によって力を得たゴジラは、アメリカの価値観を破壊しつつある。アメリカのゴジラファンの中にはハリウッド版のゴジラを「何か違う」「何かが足りない」と批評する人も多い。それは単に特撮技術やドラマ性の差異だけではないのでは、と考える。日本的なゴジラが象徴する神としての存在、畏怖の念がアメリカに芽生えつつあるのかもしれない。

山崎貴監督・脚本・VFXゴジラ-1』製作会社・東宝/2024年公開。映画館のPOPにて。戦後に廃墟「0(ゼロ)」となった日本がゴジラに蹂躙されることで 「-1(マイナスワン)」になった。作品タイトルで戦禍の被害とゴジラが対等に扱われている。