私は万博反対派だった。これまで2005年愛知万博、2010年中国・上海万博、2025年大阪万博と3度の万博を仕事で観覧した。そして、そのいずれの万博も私の心を打つことはなかった。「面白くなかったから反対」しているのではなく、そもそも万博の趣旨がもはや時代遅れだと私は感じていた。この漠然とした私の感慨はどこから生まれたのか、そして万博とはそもそも何のかを問おうとこのブログを書き始めた。
そして、万博の誕生から今日に至るまでの歴史を知り、私は反対派の考えを改めた。万博を今の時代にアップデートして今後も開催され続けるべきだと。あるいは現在のきな臭い混迷の時代において、万博は世界の安定化により貢献できるのではないかと考え
た。
私はなぜ考えを改めたのか。万博の歴史とは、そして私の考える新しい万博『オルタナティブ・エキスポ』とはどのようなものなのかをここに記したい
もちろん、私の万博改革論への反対意見も大歓迎だ。そんな議論の先に、きっと今より素晴らしいカタチの万博が浮かんでくるはずだ。
1.万博とは何か
万博とは「万国博覧会」の略称だ。万博とは何なのか?その答えは「国際博覧会条約」なるものの「第一章 第一条 定義」に記されている。文章は長くて読むのは億劫だが、この長さ・内容も私の反対理由であり、万博がつまらない理由の主要部分でもあるので、ここは敢えて全文記したい。
博覧会とは、名称のいかんを問わず、公衆の教育を主たる目的とする催しであって、文明の必要とするものに応ずるために人類が利用することのできる手段又は人類の活動の一若しくは二以上の部門において達成された進歩若しくはそれらの部門における将来の展望を示すものをいう。
読んでいてその高尚な理念に心高ぶる方もいれば、私のように辟易する方もいるのではないか。わかりづらい文章なのでもう少し詳細に読解してみよう。
博覧会で何を見るのかといえば「人類が利用することのできる手段」「人類の活動(中略)において達成された進歩」つまり人類がこれまでに積み上げてきた文明とその成果を共有することを謳っている。そして、それはただの展示ではなく「将来の展望を示すもの」でなくてはならない。それら文明の披露、未来への展望を何のために観賞するのかと問われれば、『定義』にはきちんと明記されている。「公衆の教育を主たる目的とする催し」と。
私はこのブログを書くにあたって初めてこの『定義』を知ったのだが、実際に私が訪れた各万博会場において感じた時代遅れな印象、つまらなさが見事にこの『定義』で表されているではないか。そのことに私は心から驚かされた。形而上である国際博覧会条約の第一章・第一条・定義が、形而下として実際に行われている万博というイベントへと忠実に、あるいは完璧にトレースされているこの堅牢な両者の関係性に、私は畏怖の念さえ覚える。
私が万博改革論を主張するにあたって、この「定義に意見することは、万博そのものに意見することと同義である」という立場にたって、ブログを書き進めたい。

はたしてどんな万博になるのであろうか?
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2.万博はなぜ時代遅れなのか
最も古い万博は1851年のロンドン万博。当時は最先端の文明が「会」することに価値があった。なぜならその会場に足を運ばなければ得られない文明が確かに存在していたから。しかし情報通信がこれほどまでに発達した現代では、会や場といった“箱”の意味・意義は薄れている。現物を見る、触れるなど人の五感を刺激する文明との接触は貴いに違いないが、果たしてどれだけの人がそこに価値を見出しているのだろうか。そして展示される文明も産業革命当初ではモノが中心だったが、現在はソフトやアプリ、ITの分野こそ技術革新が著しい。現代社会における最先端技術とは手に触れる・見るといったモノとは様相が変わってきている。万博会場という“箱”でなくても、人々は手元のスマホから最先端の文明にアクセスできるようになり、その手にすることができるようになった。
そして、発展し続ける資本主義社会では最先端技術が万博会場で披露されないことを私たちは既に知っている。企業や組織、国が人と資本と時間を膨大に費やして、自己に多くの利益をもたらそうと日々研究開発に取り組んでいる。そんな彼ら・彼女らが万博でその成果を発表することはありえない。最先端技術をもっとも効果的に、市場にインパクトを与える場として万博会場は不適格だからだ。イーロン・マスクやスティーブ・ジョブズが万博会場で新製品のプレゼンテーションをしたことがあったであろうか?
時代遅れの理由の最後はやや感傷的だが、私たちは文明がけっして未来を明るくするものばかりではないことを本能的に知っている。一見すると便利で、人々の生活を一変させるインパクトのある文明でさえ、その反動としてのひずみが必ず生まれる。
たとえばスマホ。確かにもはやなくてはならない文明の利器だが、スマホが起因とする事故・事件(犯罪)・依存症などの不健康で命を落とした人は有史以来何人になるのだろうか。
そして、AIの猛威。AIによって人々の生産性は格段に上がる一方、私たちは自分たちの存在がAIによって不必要とされるのでないかと内心震えている。AIを誕生させた人類は、そのAIを使いこなせることができるのか、誰一人その先の未来がわからなくなっている。
文明がもたらす未来図が無限に拡がっていることに、私自身は皮肉なことに限界を感じている。文明を画一的に賞賛し続けることにはもはや無理がある。文明が人類の発展に寄与すると心から信じている人がいるのなら、その人はよほどの楽観主義者であろう。

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3.万博はなぜつまらないのか-➀テーマがある
ここでいう「テーマ」には二つの意味がある。
まず一つめ、「テーマ」とは先に記述した『定義』のことである。この『定義』という規制、縛りが人の感性や感情に制約を加えている。未来志向で文明を共有しなければならない万博はその時点で今の時代に合ってないことは既に触れた。そして、私が考える万博がつまらないその最大の理由は、万博の目的を「教育」としていること。これに私は閉口した。私が万博を訪れる度に感じる、どこか説教くさい印象・圧迫感はこの「教育」からきているのだと納得できた。学校の先生でなくとも、あるいは小学生でも知っていること、それは「どこで何をしても、何を思ったとしても、人はそこから学ぶことができる」ということ。にもかかわらず、万博会場やそこにある各国のパビリオンはわざわざ来客者を教育しようとしているわけだ。言い方を変えれば、「啓蒙」と言っていい。大きなお世話だと私は言いたい。
そして、二つ目は各万博で掲げられるテーマ。2005年愛知万博では「自然の叡智」、大阪万博では1970年「人類の進歩と調和」、2025年「いのち輝く未来社会のデザイン」を掲げていた。ただでさえ、教育が目的である万博の各会にさらにもう一つテーマが設けられ、私からすると雁字搦め感が半端ない。テーマ自体も抽象的で、このテーマでよく人を集めようと考えるなぁと私は苦笑してしまう。
そして、そのテーマの“縛り”によって、これは私の主観だが各パビリオンも似たり寄ったりな印象だ。直近の大阪万博では「いのち輝く」パビリオンであるために、各国とも自国の美しい自然の紹介から始まるのが多かった。「その自然に、人が定住し、文明ができ、その自然の恩恵を今の私たちは‥」という流れのパビリオンがほとんどだった。万博というビックネームと笑顔で迎える各国スタッフ、そして何故か集まる人たちの熱気で、人は感動しやすくなっているのではと私は疑っている。日本のどこか山奥に、いや、山奥でなくてもいい、都市近郊に同じパビリオンを作ったら、どれほど人が集まるのかぜひモニタリング調査をやってほしい。
私の主張するオルタナティブ・エキスポでは、まずテーマを廃する。詳しくは最後の章にゆずるとしよう。
4.万博はなぜつまらないのか―➁パビリオンはアトラクションになれない
「パビリオンはアトラクションにはなれない」を換言すれば、「万博はテーマパークにはなれない」という意味。更地からパビリオンを建設し、そして万博が終われば解体撤去する期間限定の制約上、有名テーマパークのアトラクションほどの人の心を動かす仕掛けは難しいのではと私は感じてしまう。そうであるなら、何も万博に行かずともテーマパークの方が楽しいのではないか。いや、そもそも万博とテーマパークではその趣旨が違うという意見もあるだろうし、その通りでもある。だが、しかし私はその趣旨自体も不要であるとも主張しているのである。
具体例を出そう。東京ディズニーシーの『ソアリン:ファンタスティック・フライト』は座席に座り、その座席が浮いたり動いたりしながら目の前の大型モニターに映る空を飛ぶ映像で、あたかも自分が飛んでいるかのような浮遊感を得られる。特段ディズニー色が強いわけではないだけに、老若男女誰でも楽しめる素晴らしいアトラクションに仕上がっている。
もう一つは東京としまえんの『メイキングオブハリーポッター』。ハリーポッターという一つの映画世界に没入すると同時に、映画を作る側の内幕も展示体験でき、スタジオセットなども素晴らしかった。一つのテーマで何かを人に伝えるのであれば、これほどのクオリティを求めたい。
繰り返しになるが目的が違う、予算も違う、土地の広さも違う等々、“モノが違う”ことをわきまえた上で、人はどうしても比較してしまう。なぜなら人はどこでどう過ごすのか選択の自由があり、カラダはたった一つだから。「両方行く」という方がいればそれもけっこうだが、ではどちらを先に行くのか?あるいは面白そうと感じているのか?を問いたい。万博の高尚な定義と相反するのだが、残念ながら万博で文明や未来に触れたいと考えている人はそれほどもいない。テーマパークや公園、イベント感覚で楽しみたいと期待している方がほとんどだろう。
大阪万博の日本館で話題になった『藻類のハローキティ』。32種類の藻類に扮してキティちゃんは全体的に緑色をしていたが、人々はこれを見てどう思ったのだろうか?ハローキティのファンの方々にもぜひ意見を聞きたいものだ。私がハローキティに興味がないから冷めているのではない。私が愛してやまない鬼太郎が藻類となったとしても(妖怪と藻類の相性が良さそうだが)、私は眉一つ動かないだろう。
5.私の考える万博改革案―オルタナティブ・エキスポとは
ここまで読んでいただいた方なら(本当にありがとうございます)、私が何を主張したいかは予測がつくであろう。
オルタナティブ・エキスポでは現行の万博の定義を破棄することから始める。定義の改定では収まらない。破棄して新しい定義を創り上げる。具体的な文面は協会の条約担当官に任せるとして、骨子はこうだ。
『教育を目的としない』――文明を広める・教える目的をなくすことで、万博はもっと自由になれる。では何を目的にするかと問われれば、『異文化交流』と私は答えよう。教育という技術や情報のいわば「川上から川下へ」の交流ではなく、完全にフラットな交流を目指す。バーチャルでもない、SNSでもない、同じ時間・同じ場所で過ごす“リアル”な万博には、「交流」という言葉はとても相性がいい。お互いを知ること・話すこと・何かする交流を現行万博よりも強く実践するだけで、今よりよほど人類の発展に寄与するのではないかと私は考える。
『文明から文化へ』――語義的には「文明」は「文化」を内包し、博覧会協会の『定義』にもその意味合いで「文明」という言葉が用いられている。それを踏まえた上で、文明から文化へと階層を一つ下げることは、万博がより価値観の多様性を認める場として機能するようになる。最先端技術を意識して文明という言葉を使うのであれば、文明には格差があり、極端にいえば出展国は限られてしまう。しかし、文明ではなく文化とするならば全ての国が保有している。たとえ、今日できたばかりの国だったとしても、建国に至る歴史、その国に住む人の言葉・価値感、朝何時に起きて食事は何が好きかに至るまで、全ては文化と表される。文明は確かに教育とは相性がいいが、文化は教わる・学ぶものではなく、見て・聞いて・感じて・想うものである。そして文化の理解・解釈は千差万別、人が感じた異文化の感想全てに一定の自由を許されなければならない。
定義をこのように変えるだけでオルタナティブの全貌が理解されることを期待し、「今の万博よりも面白そう」と感じていただけたら幸いだ。
さて、定義を変えた上で、各万博は何をすればいいのか。
『各万博別開催テーマは作らない』――異文化交流という大目的を前に、各国パビリオンは従来の制約から解き放たれて自由に文化を発信できる。開催テーマがないので各国パビリオンは画一的にはならない。ドイツはソーセージやビールなどの食文化、アメリカはジャズ、スペインではガウディの建築物など、多様的であればあるほどどのパビリオンにも行きたくなり、人気のあるなしの差が小さくなり、各パビリオン来場者数の分散にも期待できる。
「『文化交流』という“ふんわり”したテーマで、自由に各国がパビリオンを展開できるのであればそれはもうお祭りではないか」という声も聞こえてきそうだが、私は「お祭りでいい」と主張している。
万博誘致や開催にあたっての費用・財源に税金を投入されることへの賛否は常につきまとう。曰く「いのち輝く未来社会のデザイン」に何億円使うのか?採算は取れるのか?経済効果は?と。この点に関して万博がお祭りイベントであれば、ハードルも下がるのでないか。「各国からゲストを招いて、交流を深めて万博を楽しみたい」と主催者側が「言い切る」ことができれば、その趣旨に賛同してくれる方も多くなるのではないか。例えばサッカーワールドカップやオリンピックなどは定義やテーマで、開催の是非を問われることは少ない。それはみんなが熱狂できるイベントであり、スポーツの祭典という字義通り、本質的にはお祭りであることを人類は既に共有しているから。あとはスケジュール的に、費用的に負担してまで開催したいかどうか、開催できるかどうかの問題だけだ。万博の経済効果は当然算出されるのであろうが、参加者や主催者側が「楽しかったね」「盛り上がったね」「来てよかったね」という想いこそが成功の是非を担う指標になりうる。従来、万博を開催するにあたって意義や目的などの“大義名分”を探す、設けることにどれほどの時間とコストがかかったであろうか。多くの人に「面白そう」「ぜひ行ってみたい」と思ってもらえる“お祭り”的な万博であればこそ、検討すべきは如何に盛り上げるかということ。万博開催の大義名分を作るコストを削減でき、開催準備にあたっては今よりもスマートな万博へと進化することができる。

当時のパビリオンの目玉は動く歴史デジタル絵巻『清明上河図』。
内容が“文化的”だったので著者の印象に今でも強く残っている。
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6.万博の歴史を鑑み、その発展的未来のために
なぜ万博は「EXPO(エキスポ)」なのかを調べた。EXPOとは「Exposition(博覧会、提示・説明・公衆に示すこと)」の略で、人類初の万博は1851年ロンドン万博でその時のテーマは「万国の産業の成果の大展示」だった。「産業」という言葉を指す「Industry」という言葉がテーマに用いられ、当時は「文明(civilization)」ではなかった。ただ19世紀当時は「産業」そのものは「文明」とほぼ同義語だったとも言える。そしてその響き・ニュアンスは現在の万博でも息づいている。産業革命をいち早く手掛けたイギリスが、万博を介して国内外に自国の産業をアピールすることは、将来の国際情勢を自国がリードするためでもあった。
ここで1点気になったことがある。なぜ1851年のロンドン万博から70年以上を経て1928年に調印された「国際博覧会条約」で「万博とは」という定義が示されたのか。調べると、人を集客できるイベントである万博はやがて各国で、規模も時期も趣旨もバラバラに乱立し、平たくいえば万博のブランド力の低下を招いた。また時代が進むにつれ、巨大建築・大量展示が増えコストが増大するなか、税制や運営方式が開催国によって異なる不便もあってルールを設けようとなった。改めて「万博とは何か」を考えるにあたって、産業から文明へと、1928年条約締結当時からすれば時代の先々を見越した決定だったのではないか。私は再三このブログで雁字搦めで縛られた万博の閉塞感を訴えたが、元をたどれば「万博とは何か」というルールを設けることで発展したのが万博の歴史だった。
私は万博反対の立場であり、反対する限りは何かオルタナティブ(代替え)を提案しなければ卑怯だと考え、このブログで主張させてもらった。しかし、万博について学び調べると、私がつまらない・時代遅れだと感じていた箇所には全て理由と時代がつまっていた。歴史の必然だったのだと私は納得してしまった。そしてその時代の潮流に揉まれながらも、この万博を築き、守り、発展し続けようとした先人たちに私は頭が下がる思いをした。
私が掲げるオルタナティブ・エキスポ案では今の万博のあり方を否定して新しい万博を築く気概で論を進めたが、先人に敬意を示して万博を次の時代へとステージアップする案として主張させていただきたい。
時代にマッチした万博とは時代のニーズを的確に捉えることが求められる。今の世界でもっとも足りていないのは相互理解であり、相手を知る・学ぶためには交流が不可欠だ。交流そのものを最重視する新しい万博は、必ずや世界平和に貢献できる。
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私は想像する。文化交流をテーマとした新しい万博では各国パビリオンが自由に運営し、来場者をもてなしている。地球の裏側から万博開催国に駆けつけた彼は「毎回日本のパビリオンってアニメとゲームだよね」と言葉とは裏腹に嬉しそうにしゃべっているし、何とかして日本館に行きたいと考えている。
私は開催国のテーマを設けないことで万博はもっと多様的になると主張した。しかし回数を重ねる度に、段々と一つの展示コンセプトに収れんされることに注意をしなければならない。それは各国が誇る美味しい料理パビリオンだ。人類は誰もが美味しいものに目がないのだから。
参考:
外務省ホームページ > 外交政策 > その他の経済外交トピックス より
国際博覧会(万博)「国際博覧会条約」抜粋









