1.日本三大大仏「岐阜大仏」
「世界三大~」「日本三大~」と並び称される上位2つは誰もが知っている異論を挟む余地のないものになるが、3つ目は大抵が“御贔屓”か“ご当地”ものと相場が決まっている。「日本三大大仏」と言えば、「奈良」「鎌倉」ときて3つ目は何か。日本中の大仏が名乗っている可能性すらある。
岐阜市大仏町(!)にある黄檗宗金鳳山正法寺(おうばくしゅうきんぽうざんしょうぼうじ)のパンフレットには『日本三大仏 岐阜大仏殿』と高らかに銘打っている。斎藤道三や織田信長のおかげで知名度の高い岐阜城のふもとに岐阜大仏は建立された。私はこの大仏を何度か参拝している。ブログタイトルには『比較論』と書いたが、二仏を比較するなど、凡人には畏れ多いことだ。このブログでは、凡人よりさらに劣る愚者の戯れとしてご容赦いただきたい。
奈良の大仏についての詳細は歴史の教科書に委ねて割愛させていただく。修学旅行等で訪れた方もきっと多いだろう。実際に自分の目で見たことがある方は、そのときの印象を思い出していただいて、このブログとお付き合いいただきたい。
では、岐阜大仏とはどのような由来なのか。大仏は金鳳山正法寺、第11代惟中(いちゅう)和尚が天明7年(1787)に度重なる災害による被災者追善を目的に大釈迦如来像の建立を発願。しかし、元々門徒の少ない正法寺だったので、各地へ托鉢を重ねて浄財や経本の喜捨を仰ぐことになった。
寛政6年(1794)に頭部のみが出来上がり、文化7年(1810)の大仏殿上棟式修行も行われ、建立がいよいよ本格化する最中の文化12年(1815)に惟中和尚が遷化(せんげ。高僧が亡くなること)。第12代肯宗(こうちゅう)が師の志を引き継ぎ、文政12年(1829)に完成。天保3年(1832)の開眼供養には尾張尾州候の使者を賜り、織田信長居城以来の盛儀であったと、以上は正法寺のパンフレットに記されている。

江戸後期の建物で岐阜市重要文化財。
岐阜市大仏町8番地。
バス停「岐阜公園歴史博物館前」より徒歩3分。
写真AC https://www.photo-ac.com/
Special thanks to ねこしゃんさん
2.大仏の材質・製造工法の比較
奈良の大仏は幾度の戦乱による焼失もあって3体あった。ここでは天平勝宝4年(752年)に完成された1代目について記述する。詳細を省けば、本体は型にはめた銅でできており、表面に鍍金(めっき)を施している。建設当時、鍍金の溶剤であった水銀、そして銅に含まれていたヒ素によって数百人の中毒患者が出て、多くの人命が失われたと考えられる。記録では中毒者を看護するための救護院も設けられた。
加えて大仏建立では銅を高熱で溶かす火力に欠かせない大量の木材が必要とされるため、大規模な森林伐採が行われた。この自然破壊によって都が奈良から京都へと遷都されたとの説もある。
一方、岐阜大仏はその製造方法から「籠(かご)大仏」とも呼ばれている。岐阜大仏は心柱を中心に木材で構造を造り、その上から竹材を編み合わせて全身を造形。仕上げに漆箔を施す。その作り方、材質は大まかに言えば「ねぶた」などの巨大な張り子・籠細工と同じだ。注目すべきはその張り子の生地ともなる料紙。それは只の紙ではない。『阿弥陀経』『法華経』『大般若経』などの経典だ。惟中の勧進活動では経典の収集も含まれていた。
つまり大仏建立を支持する多くの人々、寺院や武家、庶民にいたるまで、信仰の拠り所としていた経典を喜捨することで大仏は仏舎利(釈迦の骨)などと遜色ない霊性を帯びた存在へと昇段されたのである。

左:大仏上部の内部。右:大仏下部の内側。
内部の紙1枚1枚、いや1切れ1切れに
当時の人の祈りが込められている。
3.出資者(スポンサー)の比較
奈良の大仏は聖武天皇の発願により建立が始まる。出資者はいわば『国』であった。それだけに、大仏と大仏殿の建設は文字通り国家プロジェクトとなり全国から多くの技術者、職人、作業者が集められ、携わった者はのべ約260万人と試算されている。この人数は当時の日本の人口の約半分に相当するというから、どれほどの予算と労力と人の想いが込められたかがわかるであろう。大仏殿を除いた大仏だけを取り上げると、天平17年(745年)に製作が開始され、天平勝宝4年(752年)の開眼供養会(魂入れの儀式)に至るまで7年の歳月が費やされた。開眼供養会の時点では大仏本体の基礎構造物の完成であり、その後、細かい仕上げを施し、完成したのが宝亀2年(771年)。製作開始から26年かかったことになる。
岐阜大仏の歴史については既に記した。奈良の大仏が国家プロジェクトであったことと比べると、いわば一地方の寺院の僧侶たちが、各地を回り資金と大仏建設の材料となる経典を集めたことになる。天武天皇という現人神がその官僚機構を駆使して、国を挙げて取り組むのとは違い、惟中和尚とその門人たちは市井の人、一人ひとりに大仏建立の意義とその先の目指すべき世について語り、説得したのであろう。手元の資料にはどれほどの資金と経典が集まったか、その情報はない。ただ記録によれば惟中の発願より二代にわたり38年間の月日が経過している。どれほどの人数がこの大仏に携わったかはよくわからない。(どこかに資料はあるかと思うが)
4.大きさ、姿形、姿勢の比較
奈良の大仏は全長が約15m(台座含めると約18m)、岐阜大仏は13.63m。奈良大仏が丸顔に対して、岐阜大仏は面長な印象だ。
奈良の大仏の視線はどこまでも正面にまっすぐ据え、私の印象だが衆生はその視点の先に何があるのか、つい気になって大仏の視線を追いたくなる。まさに鎮護国家を担うにふさわしい大仏の、国をリードするビジョンと言うと大げさだろうか。
奈良大仏からは背筋がまっすぐで姿勢の良さを感じられるのに対して、岐阜大仏は前傾・前かがみだ。下から見上げる私たちにぐぐっと迫るような、私たちの話を聞いていただけそうな岐阜大仏の佇まいだ。パンフレットには「うつむくそのお姿は真下から見上げる狭い堂内であっても目を合わすことが出来、大きな仏像に優しく包み込まれる思いがします」とある。
余談だが姿勢正しく真っすぐ前方を見据える奈良の大仏の大仏殿には「観相窓」がある。元旦と8月15日の万灯供養会にこの窓が開き、大仏の凛々しい尊顔を私たちは大仏殿の外からも拝むことができる。これもその姿勢の良さから成り立つ装置であり、行事であろう。もし姿勢が岐阜大仏のように前傾になると、窓が開いても大仏の露わになった頭頂部が見えるだけではないか。それはそれでめったに見ることができない部分だが、この観相窓なるものは造られないだろう。

巨大な建造物である大仏殿も、
観想窓から大仏のご尊顔をうかがえると
まるで大仏の衣のように見えてくる。
写真AC https://www.photo-ac.com/
Special thanks to 丸岡ジョー
5.二仏を比較して感じる日本の信仰史
比較して大仏の優劣を競うつもりは全くないので、私はこのブログでは可能な限り客観的な事実のみを書こうと気を配った。そして、両大仏の差異を比較し見つめることでこの国の宗教史的変遷に想いを馳せることができた。
奈良の大仏は「仏教とは何か」「仏教による国威統一を図る」という目的から発した、国主導による歴史的偉業だった。それから約1080年の時を経て、一地方都市の美濃の国で資金も工事も、そして何よりも大仏の功徳にあやかろうという発願も民間主導で成就した軌跡は、日本における仏教の浸透・深化を如実に物語っているのではないか。
岐阜大仏はその製造工法から「籠大仏」「はりぼて大仏」と奈良や鎌倉の大仏と比べて評価が低く表現されることもある。しかし、金銅や木材、石材で造らなくとも、竹や紙によってこれだけの大きさの、そして今日でも現存している堅固な仏像は技術の進歩により、費用も工期も効率的、今でいうコスパよく造ることができたと言える。そして、大仏を主に構成するのは只の紙ではない、経典だ。仏像はただのフィギュアではない。仏同様の霊力やご利益を表さなければならず、その力を仏の教えそのものである経典によって形造られたこの大仏は、仏教伝来から幾星霜を経て人々が仏教の本質をよく理解したその証左になるのではないだろうか。
私を温かく見下ろす岐阜大仏に見つめられながら、日本の仏教の深化が見えてきた。

これも私たちへ眼差しを注ぐために
俯かれたため。
大仏の胎内には平安時代作と推定される
木造薬師如来が秘仏として安置されている。
著者撮影。
参考文献:
パンフレット『日本三大仏 岐阜大仏殿 黄檗宗金鳳山正法寺』
鷹巣純『紙貼りの大仏―正法寺「釈迦如来坐像」、いわゆる“岐阜大仏”について』
(季刊『怪 vol.0052』2018年、カドカワより)
※InstagramやXでも藤江文丞の名前で蔵書や映画の感想などを投稿しています。






