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本や映画、歴史、旅、社会のありようを感じたままに。

水木しげるに救われた命

 あなたはお化け、妖怪、幽霊、その他怪異なるものは好きですか?私は好物です。でも、言うほど信じていません。自分が感じたモノ以外は。

 

 愛知県名古屋市郊外。都会とは言えないまでも、さりとて田舎ではない。住宅地から少し離れるとそこには小さな田畑が点在する、どこにでもある中核都市。夜10時を過ぎた時間に、大学生だった私は河の堤防の上を歩いていた。その頃、中学生の家庭教師をしており、その帰りだった。
 私の家からその子の家まで徒歩で30分以上はかかる。確かそのとき自転車を壊すかパンクか何かして、しばらく自転車が使えなかった。だが散歩が好きだった私は、夜、河のせせらぎや虫の声を耳にしながら、月明かりを浴びて歩いて帰るのも気持ちよかった。虫の声?そうそう思い出した。季節は夏の手前、夜とはいえ、そろそろ蒸し暑くなる時期だった。
 河幅はせいぜい10mもないだろう。その河の両側を囲む堤防の彼岸と此岸の幅は40mほどだろうか。時折、歩行者や自転車用の幅の狭い橋が両側の堤防をつなげるようにかかっている。

 

 その日は、よく月が冴えていた。ちょうど私が通りかかった“そこ”の周囲には街灯がなく、堤防から降りたその周辺は小さな町工場と駐車場、畑ばかりで人家がなく暗かった。見上げると月は冴えているのだが、その光を吸収していくかのような暗がりが辺りを覆う。とはいえ、いつもの見知った場所だし、夜の散歩に興がそそられていた私は気にすることなく、家路に向かって歩いていた。
 すると…

 

 赤ん坊の声?いや、猫か?違う、何の泣き声だ?

 聞いたことのない声がかなりの音量で私の耳を突き刺してきた。

 音の方に目をやると、そこは堤防の下、

 おそらく河岸の鬱蒼とした叢(くさむら)あたりか?

 いや、本当に水辺と岸が接する際の際あたりではないか。

 ただでさえ、堤防上は暗いのだが、

堤防下の河、河原はさらに暗くて何も見えない。

声の主は私のいるところからは全く見えなかった。

 しかし、見えない何かを凝視すればするほど、

声のする方向、声の主がいるところはわかった。

 

それにしてもその声は不思議というか気味が悪かった。

いや、声なのだろうか?音?ノイズ?

泣いているのか、鳴いているのか、啼いているのか、、。

これだけはっきり聞こえるのに

それが人なのか、それ以外の生き物なのか、全くわからなかった。

声の主はおそらく一人、あるいは一匹なのだが、どういうわけか

何種類もの声にも聞こえ、その複数の声が重複し合い、

あるいは収れんされ、振幅の幅が拡がったり狭まったりして

響き渡る不快さはこの世のものではなかった。

泣き声だと感じていたが耳をそばたてると、

何人もの人のうめき声にも聞こえてくる。

それほど、変化の激しい声なのだが、

やはり時折赤ん坊の声のようにも聞こえる。

 

22時を過ぎて、こんな川岸の叢に赤ん坊が一人でいるのであればそれは間違いなく、その子の命に関わる。私はその堤防を歩き過ぎることができなくなった。堤防を降りて、その川岸に、声のする方へ向かう。 

 

 堤防から降りるとどういうわけか風が吹いて来た。

 風によってさざめく草の音、揺れ動く草の動きも不気味だった。

 足元は見えないが膝下まで伸びている草をかき分け、

 着実に声の方に近づいていく。

 近づきながら、もし仮に赤ん坊だったらその後どうしたらいいのだろうか、

 そんなことを考えていた。

 声のする“そこ”は、周囲の叢よりもさらに一層草深く、

 “それ”が何なのか、これだけ近づいても未だに陰、形も見えなかった。

            ・

            ・

 叢はひょっとして川岸ではなく、その向こうの水の上かもしれない。

 気を付けないと、川に堕ちてしまうぞ。

 それにしてもなんだってこんな河原に赤ん坊なんかが…

 「あっ!」

 私は思わず声が出た。

 そして恐怖という名の天啓が頭頂から足のつま先まで貫いた。

 それからの私は後ろに振り向くやいなや、

 大股で草をかき分け、できるだけ早く走り、堤防を駆け上る。

 私の表情は恐怖で歪み、歯を食いしばっていただろう。

 できるだけ早く声の主から離れなければ!

 堤防に着いてからもしばらく私は走っていた。

            ・

            ・

 肩で息をしながら、あの声からある程度離れることができると少し心が落ち着いてきた。結局私は“それ”が何だったのか、見えなかった。見ていなかった。
 だが、そのとき頭に浮かんだのは水木しげるが描いた妖怪画の、あの赤ん坊だった。

 

 『川赤子(かわあかご)』

「沼とか池で、『オギャー、オギャー』と泣く妖怪である。赤ん坊でも溺れているのではないかと思って、助けようと声のする方に行くと、今度は逆の方向から声がする。(中略)

 川赤子だと早く気づけば慌てなくてもすむのだが、土地の古老ぐらいしか知らないので、大抵の者は慌てて足を踏み外し、池や沼に落ちてずぶ濡れになる。」


水木しげる著『決定版 日本妖怪大全 妖怪・あの世・神様』講談社文庫 2014年より

 

 幼少のころから妖怪好きで水木しげるを人生の師と私は崇めていた。ましてや、川赤子はメジャー妖怪。声の主がもうすぐそこにいるというギリギリのタイミングで、この川赤子の描写とそのときの私の状況がかなり近しかったことに気づいたのは幸いだった。川赤子だと感じたそのときは私は命の危険を感じたものだが、先述の『日本妖怪大全』では水にぼちゃんと落ちておしまいのようである。

 
 読者の中には「そんなことがあるはずがない、妖怪なんているもんか」と嗤われる方もいるであろう。そんな方には、ぜひ私と同じことがその身に起こっても驚かないでほしい。そして、私にはできなかったその声の主を確かめてほしいものだ。
 ただし、何が起こっても自己責任として、私を恨まないでほしい。

 

水木しげる『決定版 日本妖怪大全 妖怪・あの世・神様』講談社文庫

 

オルタナティブ・エキスポ―万博の歴史を学び、次世代へつなげる万博を問う

 私は万博反対派だった。これまで2005年愛知万博、2010年中国・上海万博、2025年大阪万博と3度の万博を仕事で観覧した。そして、そのいずれの万博も私の心を打つことはなかった。「面白くなかったから反対」しているのではなく、そもそも万博の趣旨がもはや時代遅れだと私は感じていた。この漠然とした私の感慨はどこから生まれたのか、そして万博とはそもそも何のかを問おうとこのブログを書き始めた。

 そして、万博の誕生から今日に至るまでの歴史を知り、私は反対派の考えを改めた。万博を今の時代にアップデートして今後も開催され続けるべきだと。あるいは現在のきな臭い混迷の時代において、万博は世界の安定化により貢献できるのではないかと考えた。

 私はなぜ考えを改めたのか。万博の歴史とは、そして私の考える新しい万博『オルタナティブ・エキスポ』とはどのようなものなのかをここに記したい

 もちろん、私の万博改革論への反対意見も大歓迎だ。そんな議論の先に、きっと今より素晴らしいカタチの万博が浮かんでくるはずだ。

 

1.万博とは何か

 万博とは「万国博覧会」の略称だ。万博とは何なのか?その答えは「国際博覧会条約」なるものの「第一章 第一条 定義」に記されている。文章は長くて読むのは億劫だが、この長さ・内容も私の反対理由であり、万博がつまらない理由の主要部分でもあるので、ここは敢えて全文記したい。

 

博覧会とは、名称のいかんを問わず、公衆の教育を主たる目的とする催しであって、文明の必要とするものに応ずるために人類が利用することのできる手段又は人類の活動の一若しくは二以上の部門において達成された進歩若しくはそれらの部門における将来の展望を示すものをいう。

 

 読んでいてその高尚な理念に心高ぶる方もいれば、私のように辟易する方もいるのではないか。わかりづらい文章なのでもう少し詳細に読解してみよう。

 博覧会で何を見るのかといえば「人類が利用することのできる手段」「人類の活動(中略)において達成された進歩」つまり人類がこれまでに積み上げてきた文明とその成果を共有することを謳っている。そして、それはただの展示ではなく「将来の展望を示すもの」でなくてはならない。それら文明の披露、未来への展望を何のために観賞するのかと問われれば、『定義』にはきちんと明記されている。「公衆の教育を主たる目的とする催し」と。
 私はこのブログを書くにあたって初めてこの『定義』を知ったのだが、実際に私が訪れた各万博会場において感じた時代遅れな印象、つまらなさが見事にこの『定義』で表されているではないか。そのことに私は心から驚かされた。形而上である国際博覧会条約の第一章・第一条・定義が、形而下として実際に行われている万博というイベントへと忠実に、あるいは完璧にトレースされているこの堅牢な両者の関係性に、私は畏怖の念さえ覚える。

 私が万博改革論を主張するにあたって、この「定義に意見することは、万博そのものに意見することと同義である」という立場にたって、ブログを書き進めたい。

2025年大阪万博の次の開催は、2030年サウジアラビアのリヤドで開催予定。
はたしてどんな万博になるのであろうか?
Photo 写真AC https://www.photo-ac.com/ Special thanks to Niaholiscさん

 

2.万博はなぜ時代遅れなのか

 最も古い万博は1851年のロンドン万博。当時は最先端の文明が「会」することに価値があった。なぜならその会場に足を運ばなければ得られない文明が確かに存在していたから。しかし情報通信がこれほどまでに発達した現代では、会や場といった“箱”の意味・意義は薄れている。現物を見る、触れるなど人の五感を刺激する文明との接触は貴いに違いないが、果たしてどれだけの人がそこに価値を見出しているのだろうか。そして展示される文明も産業革命当初ではモノが中心だったが、現在はソフトやアプリ、ITの分野こそ技術革新が著しい。現代社会における最先端技術とは手に触れる・見るといったモノとは様相が変わってきている。万博会場という“箱”でなくても、人々は手元のスマホから最先端の文明にアクセスできるようになり、その手にすることができるようになった。

 そして、発展し続ける資本主義社会では最先端技術が万博会場で披露されないことを私たちは既に知っている。企業や組織、国が人と資本と時間を膨大に費やして、自己に多くの利益をもたらそうと日々研究開発に取り組んでいる。そんな彼ら・彼女らが万博でその成果を発表することはありえない。最先端技術をもっとも効果的に、市場にインパクトを与える場として万博会場は不適格だからだ。イーロン・マスクやスティーブ・ジョブズが万博会場で新製品のプレゼンテーションをしたことがあったであろうか?

 時代遅れの理由の最後はやや感傷的だが、私たちは文明がけっして未来を明るくするものばかりではないことを本能的に知っている。一見すると便利で、人々の生活を一変させるインパクトのある文明でさえ、その反動としてのひずみが必ず生まれる。

 たとえばスマホ。確かにもはやなくてはならない文明の利器だが、スマホが起因とする事故・事件(犯罪)・依存症などの不健康で命を落とした人は有史以来何人になるのだろうか。

 そして、AIの猛威。AIによって人々の生産性は格段に上がる一方、私たちは自分たちの存在がAIによって不必要とされるのでないかと内心震えている。AIを誕生させた人類は、そのAIを使いこなせることができるのか、誰一人その先の未来がわからなくなっている。

 文明がもたらす未来図が無限に拡がっていることに、私自身は皮肉なことに限界を感じている。文明を画一的に賞賛し続けることにはもはや無理がある。文明が人類の発展に寄与すると心から信じている人がいるのなら、その人はよほどの楽観主義者であろう。

パリのエッフェル塔は、1889年に開幕したパリ万博の目玉となる建築物。
Photo 写真AC https://www.photo-ac.com/ Special thanks to Megvmiさん


3.万博はなぜつまらないのか-➀テーマがある

 ここでいう「テーマ」には二つの意味がある。

 まず一つめ、「テーマ」とは先に記述した『定義』のことである。この『定義』という規制、縛りが人の感性や感情に制約を加えている。未来志向で文明を共有しなければならない万博はその時点で今の時代に合ってないことは既に触れた。そして、私が考える万博がつまらないその最大の理由は、万博の目的を「教育」としていること。これに私は閉口した。私が万博を訪れる度に感じる、どこか説教くさい印象・圧迫感はこの「教育」からきているのだと納得できた。学校の先生でなくとも、あるいは小学生でも知っていること、それは「どこで何をしても、何を思ったとしても、人はそこから学ぶことができる」ということ。にもかかわらず、万博会場やそこにある各国のパビリオンはわざわざ来客者を教育しようとしているわけだ。言い方を変えれば、「啓蒙」と言っていい。大きなお世話だと私は言いたい。

 そして、二つ目は各万博で掲げられるテーマ。2005年愛知万博では「自然の叡智」、大阪万博では1970年「人類の進歩と調和」、2025年「いのち輝く未来社会のデザイン」を掲げていた。ただでさえ、教育が目的である万博の各会にさらにもう一つテーマが設けられ、私からすると雁字搦め感が半端ない。テーマ自体も抽象的で、このテーマでよく人を集めようと考えるなぁと私は苦笑してしまう。

 そして、そのテーマの“縛り”によって、これは私の主観だが各パビリオンも似たり寄ったりな印象だ。直近の大阪万博では「いのち輝く」パビリオンであるために、各国とも自国の美しい自然の紹介から始まるのが多かった。「その自然に、人が定住し、文明ができ、その自然の恩恵を今の私たちは‥」という流れのパビリオンがほとんどだった。万博というビックネームと笑顔で迎える各国スタッフ、そして何故か集まる人たちの熱気で、人は感動しやすくなっているのではと私は疑っている。日本のどこか山奥に、いや、山奥でなくてもいい、都市近郊に同じパビリオンを作ったら、どれほど人が集まるのかぜひモニタリング調査をやってほしい。

 私の主張するオルタナティブ・エキスポでは、まずテーマを廃する。詳しくは最後の章にゆずるとしよう。

 

4.万博はなぜつまらないのか―➁パビリオンはアトラクションになれない

 「パビリオンはアトラクションにはなれない」を換言すれば、「万博はテーマパークにはなれない」という意味。更地からパビリオンを建設し、そして万博が終われば解体撤去する期間限定の制約上、有名テーマパークのアトラクションほどの人の心を動かす仕掛けは難しいのではと私は感じてしまう。そうであるなら、何も万博に行かずともテーマパークの方が楽しいのではないか。いや、そもそも万博とテーマパークではその趣旨が違うという意見もあるだろうし、その通りでもある。だが、しかし私はその趣旨自体も不要であるとも主張しているのである。

 具体例を出そう。東京ディズニーシーの『ソアリン:ファンタスティック・フライト』は座席に座り、その座席が浮いたり動いたりしながら目の前の大型モニターに映る空を飛ぶ映像で、あたかも自分が飛んでいるかのような浮遊感を得られる。特段ディズニー色が強いわけではないだけに、老若男女誰でも楽しめる素晴らしいアトラクションに仕上がっている。

 もう一つは東京としまえんの『メイキングオブハリーポッター』。ハリーポッターという一つの映画世界に没入すると同時に、映画を作る側の内幕も展示体験でき、スタジオセットなども素晴らしかった。一つのテーマで何かを人に伝えるのであれば、これほどのクオリティを求めたい。

 繰り返しになるが目的が違う、予算も違う、土地の広さも違う等々、“モノが違う”ことをわきまえた上で、人はどうしても比較してしまう。なぜなら人はどこでどう過ごすのか選択の自由があり、カラダはたった一つだから。「両方行く」という方がいればそれもけっこうだが、ではどちらを先に行くのか?あるいは面白そうと感じているのか?を問いたい。万博の高尚な定義と相反するのだが、残念ながら万博で文明や未来に触れたいと考えている人はそれほどもいない。テーマパークや公園、イベント感覚で楽しみたいと期待している方がほとんどだろう。

 大阪万博の日本館で話題になった『藻類のハローキティ』。32種類の藻類に扮してキティちゃんは全体的に緑色をしていたが、人々はこれを見てどう思ったのだろうか?ハローキティのファンの方々にもぜひ意見を聞きたいものだ。私がハローキティに興味がないから冷めているのではない。私が愛してやまない鬼太郎が藻類となったとしても(妖怪と藻類の相性が良さそうだが)、私は眉一つ動かないだろう。

 

5.私の考える万博改革案―オルタナティブ・エキスポとは

 ここまで読んでいただいた方なら(本当にありがとうございます)、私が何を主張したいかは予測がつくであろう。

 オルタナティブ・エキスポでは現行の万博の定義を破棄することから始める。定義の改定では収まらない。破棄して新しい定義を創り上げる。具体的な文面は協会の条約担当官に任せるとして、骨子はこうだ。

 『教育を目的としない』――文明を広める・教える目的をなくすことで、万博はもっと自由になれる。では何を目的にするかと問われれば、『異文化交流』と私は答えよう。教育という技術や情報のいわば「川上から川下へ」の交流ではなく、完全にフラットな交流を目指す。バーチャルでもない、SNSでもない、同じ時間・同じ場所で過ごす“リアル”な万博には、「交流」という言葉はとても相性がいい。お互いを知ること・話すこと・何かする交流を現行万博よりも強く実践するだけで、今よりよほど人類の発展に寄与するのではないかと私は考える。

 『文明から文化へ』――語義的には「文明」は「文化」を内包し、博覧会協会の『定義』にもその意味合いで「文明」という言葉が用いられている。それを踏まえた上で、文明から文化へと階層を一つ下げることは、万博がより価値観の多様性を認める場として機能するようになる。最先端技術を意識して文明という言葉を使うのであれば、文明には格差があり、極端にいえば出展国は限られてしまう。しかし、文明ではなく文化とするならば全ての国が保有している。たとえ、今日できたばかりの国だったとしても、建国に至る歴史、その国に住む人の言葉・価値感、朝何時に起きて食事は何が好きかに至るまで、全ては文化と表される。文明は確かに教育とは相性がいいが、文化は教わる・学ぶものではなく、見て・聞いて・感じて・想うものである。そして文化の理解・解釈は千差万別、人が感じた異文化の感想全てに一定の自由を許されなければならない。

 定義をこのように変えるだけでオルタナティブの全貌が理解されることを期待し、「今の万博よりも面白そう」と感じていただけたら幸いだ。

 

 さて、定義を変えた上で、各万博は何をすればいいのか。

 『各万博別開催テーマは作らない』――異文化交流という大目的を前に、各国パビリオンは従来の制約から解き放たれて自由に文化を発信できる。開催テーマがないので各国パビリオンは画一的にはならない。ドイツはソーセージやビールなどの食文化、アメリカはジャズ、スペインではガウディの建築物など、多様的であればあるほどどのパビリオンにも行きたくなり、人気のあるなしの差が小さくなり、各パビリオン来場者数の分散にも期待できる。

 「『文化交流』という“ふんわり”したテーマで、自由に各国がパビリオンを展開できるのであればそれはもうお祭りではないか」という声も聞こえてきそうだが、私は「お祭りでいい」と主張している。

 万博誘致や開催にあたっての費用・財源に税金を投入されることへの賛否は常につきまとう。曰く「いのち輝く未来社会のデザイン」に何億円使うのか?採算は取れるのか?経済効果は?と。この点に関して万博がお祭りイベントであれば、ハードルも下がるのでないか。「各国からゲストを招いて、交流を深めて万博を楽しみたい」と主催者側が「言い切る」ことができれば、その趣旨に賛同してくれる方も多くなるのではないか。例えばサッカーワールドカップやオリンピックなどは定義やテーマで、開催の是非を問われることは少ない。それはみんなが熱狂できるイベントであり、スポーツの祭典という字義通り、本質的にはお祭りであることを人類は既に共有しているから。あとはスケジュール的に、費用的に負担してまで開催したいかどうか、開催できるかどうかの問題だけだ。万博の経済効果は当然算出されるのであろうが、参加者や主催者側が「楽しかったね」「盛り上がったね」「来てよかったね」という想いこそが成功の是非を担う指標になりうる。従来、万博を開催するにあたって意義や目的などの“大義名分”を探す、設けることにどれほどの時間とコストがかかったであろうか。多くの人に「面白そう」「ぜひ行ってみたい」と思ってもらえる“お祭り”的な万博であればこそ、検討すべきは如何に盛り上げるかということ。万博開催の大義名分を作るコストを削減でき、開催準備にあたっては今よりもスマートな万博へと進化することができる。

2010年中国・上海万博の中国館。現在は「中華芸術宮」として稼働。
当時のパビリオンの目玉は動く歴史デジタル絵巻『清明上河図』。
内容が“文化的”だったので著者の印象に今でも強く残っている。
Photo 写真AC https://www.photo-ac.com/ Special thanks to Shun*SUNさん

 

6.万博の歴史を鑑み、その発展的未来のために

 なぜ万博は「EXPO(エキスポ)」なのかを調べた。EXPOとは「Exposition(博覧会、提示・説明・公衆に示すこと)」の略で、人類初の万博は1851年ロンドン万博でその時のテーマは「万国の産業の成果の大展示」だった。「産業」という言葉を指す「Industry」という言葉がテーマに用いられ、当時は「文明(civilization)」ではなかった。ただ19世紀当時は「産業」そのものは「文明」とほぼ同義語だったとも言える。そしてその響き・ニュアンスは現在の万博でも息づいている。産業革命をいち早く手掛けたイギリスが、万博を介して国内外に自国の産業をアピールすることは、将来の国際情勢を自国がリードするためでもあった。

 ここで1点気になったことがある。なぜ1851年のロンドン万博から70年以上を経て1928年に調印された「国際博覧会条約」で「万博とは」という定義が示されたのか。調べると、人を集客できるイベントである万博はやがて各国で、規模も時期も趣旨もバラバラに乱立し、平たくいえば万博のブランド力の低下を招いた。また時代が進むにつれ、巨大建築・大量展示が増えコストが増大するなか、税制や運営方式が開催国によって異なる不便もあってルールを設けようとなった。改めて「万博とは何か」を考えるにあたって、産業から文明へと、1928年条約締結当時からすれば時代の先々を見越した決定だったのではないか。私は再三このブログで雁字搦めで縛られた万博の閉塞感を訴えたが、元をたどれば「万博とは何か」というルールを設けることで発展したのが万博の歴史だった。

 私は万博反対の立場であり、反対する限りは何かオルタナティブ(代替え)を提案しなければ卑怯だと考え、このブログで主張させてもらった。しかし、万博について学び調べると、私がつまらない・時代遅れだと感じていた箇所には全て理由と時代がつまっていた。歴史の必然だったのだと私は納得してしまった。そしてその時代の潮流に揉まれながらも、この万博を築き、守り、発展し続けようとした先人たちに私は頭が下がる思いをした。

 私が掲げるオルタナティブ・エキスポ案では今の万博のあり方を否定して新しい万博を築く気概で論を進めたが、先人に敬意を示して万博を次の時代へとステージアップする案として主張させていただきたい。

 時代にマッチした万博とは時代のニーズを的確に捉えることが求められる。今の世界でもっとも足りていないのは相互理解であり、相手を知る・学ぶためには交流が不可欠だ。交流そのものを最重視する新しい万博は、必ずや世界平和に貢献できる。

                   ・

 私は想像する。文化交流をテーマとした新しい万博では各国パビリオンが自由に運営し、来場者をもてなしている。地球の裏側から万博開催国に駆けつけた彼は「毎回日本のパビリオンってアニメとゲームだよね」と言葉とは裏腹に嬉しそうにしゃべっているし、何とかして日本館に行きたいと考えている。

 私は開催国のテーマを設けないことで万博はもっと多様的になると主張した。しかし回数を重ねる度に、段々と一つの展示コンセプトに収れんされることに注意をしなければならない。それは各国が誇る美味しい料理パビリオンだ。人類は誰もが美味しいものに目がないのだから。

 

参考:

外務省ホームページ > 外交政策 > その他の経済外交トピックス より
国際博覧会(万博)「国際博覧会条約」抜粋

奈良の大仏と岐阜大仏比較論

1.日本三大大仏「岐阜大仏」

 「世界三大~」「日本三大~」と並び称される上位2つは誰もが知っている異論を挟む余地のないものになるが、3つ目は大抵が“御贔屓”か“ご当地”ものと相場が決まっている。「日本三大大仏」と言えば、「奈良」「鎌倉」ときて3つ目は何か。日本中の大仏が名乗っている可能性すらある。

 岐阜市大仏町(!)にある黄檗宗金鳳山正法寺(おうばくしゅうきんぽうざんしょうぼうじ)のパンフレットには『日本三大仏 岐阜大仏殿』と高らかに銘打っている。斎藤道三や織田信長のおかげで知名度の高い岐阜城のふもとに岐阜大仏は建立された。私はこの大仏を何度か参拝している。ブログタイトルには『比較論』と書いたが、二仏を比較するなど、凡人には畏れ多いことだ。このブログでは、凡人よりさらに劣る愚者の戯れとしてご容赦いただきたい。

 奈良の大仏についての詳細は歴史の教科書に委ねて割愛させていただく。修学旅行等で訪れた方もきっと多いだろう。実際に自分の目で見たことがある方は、そのときの印象を思い出していただいて、このブログとお付き合いいただきたい。

 では、岐阜大仏とはどのような由来なのか。大仏は金鳳山正法寺、第11代惟中(いちゅう)和尚が天明7年(1787)に度重なる災害による被災者追善を目的に大釈迦如来像の建立を発願。しかし、元々門徒の少ない正法寺だったので、各地へ托鉢を重ねて浄財や経本の喜捨を仰ぐことになった。

 寛政6年(1794)に頭部のみが出来上がり、文化7年(1810)の大仏殿上棟式修行も行われ、建立がいよいよ本格化する最中の文化12年(1815)に惟中和尚が遷化(せんげ。高僧が亡くなること)。第12代肯宗(こうちゅう)が師の志を引き継ぎ、文政12年(1829)に完成。天保3年(1832)の開眼供養には尾張尾州候の使者を賜り、織田信長居城以来の盛儀であったと、以上は正法寺のパンフレットに記されている。

正法寺大仏殿。明朝建築と和洋が融合した独特な外観。
江戸後期の建物で岐阜市重要文化財。
岐阜市大仏町8番地。
バス停「岐阜公園歴史博物館前」より徒歩3分。
写真AC https://www.photo-ac.com/
Special thanks to ねこしゃんさん

2.大仏の材質・製造工法の比較

 奈良の大仏は幾度の戦乱による焼失もあって3体あった。ここでは天平勝宝4年(752年)に完成された1代目について記述する。詳細を省けば、本体は型にはめた銅でできており、表面に鍍金(めっき)を施している。建設当時、鍍金の溶剤であった水銀、そして銅に含まれていたヒ素によって数百人の中毒患者が出て、多くの人命が失われたと考えられる。記録では中毒者を看護するための救護院も設けられた。
 加えて大仏建立では銅を高熱で溶かす火力に欠かせない大量の木材が必要とされるため、大規模な森林伐採が行われた。この自然破壊によって都が奈良から京都へと遷都されたとの説もある。

 一方、岐阜大仏はその製造方法から「籠(かご)大仏」とも呼ばれている。岐阜大仏は心柱を中心に木材で構造を造り、その上から竹材を編み合わせて全身を造形。仕上げに漆箔を施す。その作り方、材質は大まかに言えば「ねぶた」などの巨大な張り子・籠細工と同じだ。注目すべきはその張り子の生地ともなる料紙。それは只の紙ではない。『阿弥陀経』『法華経』『大般若経』などの経典だ。惟中の勧進活動では経典の収集も含まれていた。

 つまり大仏建立を支持する多くの人々、寺院や武家、庶民にいたるまで、信仰の拠り所としていた経典を喜捨することで大仏は仏舎利(釈迦の骨)などと遜色ない霊性を帯びた存在へと昇段されたのである。

 

正法寺パンフレットより。
左:大仏上部の内部。右:大仏下部の内側。
内部の紙1枚1枚、いや1切れ1切れに
当時の人の祈りが込められている。

3.出資者(スポンサー)の比較

 奈良の大仏は聖武天皇の発願により建立が始まる。出資者はいわば『国』であった。それだけに、大仏と大仏殿の建設は文字通り国家プロジェクトとなり全国から多くの技術者、職人、作業者が集められ、携わった者はのべ約260万人と試算されている。この人数は当時の日本の人口の約半分に相当するというから、どれほどの予算と労力と人の想いが込められたかがわかるであろう。大仏殿を除いた大仏だけを取り上げると、天平17年(745年)に製作が開始され、天平勝宝4年(752年)の開眼供養会(魂入れの儀式)に至るまで7年の歳月が費やされた。開眼供養会の時点では大仏本体の基礎構造物の完成であり、その後、細かい仕上げを施し、完成したのが宝亀2年(771年)。製作開始から26年かかったことになる。

 岐阜大仏の歴史については既に記した。奈良の大仏が国家プロジェクトであったことと比べると、いわば一地方の寺院の僧侶たちが、各地を回り資金と大仏建設の材料となる経典を集めたことになる。天武天皇という現人神がその官僚機構を駆使して、国を挙げて取り組むのとは違い、惟中和尚とその門人たちは市井の人、一人ひとりに大仏建立の意義とその先の目指すべき世について語り、説得したのであろう。手元の資料にはどれほどの資金と経典が集まったか、その情報はない。ただ記録によれば惟中の発願より二代にわたり38年間の月日が経過している。どれほどの人数がこの大仏に携わったかはよくわからない。(どこかに資料はあるかと思うが)

4.大きさ、姿形、姿勢の比較

 奈良の大仏は全長が約15m(台座含めると約18m)、岐阜大仏は13.63m。奈良大仏が丸顔に対して、岐阜大仏は面長な印象だ。

 奈良の大仏の視線はどこまでも正面にまっすぐ据え、私の印象だが衆生はその視点の先に何があるのか、つい気になって大仏の視線を追いたくなる。まさに鎮護国家を担うにふさわしい大仏の、国をリードするビジョンと言うと大げさだろうか。

 奈良大仏からは背筋がまっすぐで姿勢の良さを感じられるのに対して、岐阜大仏は前傾・前かがみだ。下から見上げる私たちにぐぐっと迫るような、私たちの話を聞いていただけそうな岐阜大仏の佇まいだ。パンフレットには「うつむくそのお姿は真下から見上げる狭い堂内であっても目を合わすことが出来、大きな仏像に優しく包み込まれる思いがします」とある。

 余談だが姿勢正しく真っすぐ前方を見据える奈良の大仏の大仏殿には「観相窓」がある。元旦と8月15日の万灯供養会にこの窓が開き、大仏の凛々しい尊顔を私たちは大仏殿の外からも拝むことができる。これもその姿勢の良さから成り立つ装置であり、行事であろう。もし姿勢が岐阜大仏のように前傾になると、窓が開いても大仏の露わになった頭頂部が見えるだけではないか。それはそれでめったに見ることができない部分だが、この観相窓なるものは造られないだろう。

 

ご存じ、奈良東大寺の大仏殿と大仏様。
巨大な建造物である大仏殿も、
観想窓から大仏のご尊顔をうかがえると
まるで大仏の衣のように見えてくる。
写真AC https://www.photo-ac.com/
Special thanks to 丸岡ジョー

5.二仏を比較して感じる日本の信仰史

 比較して大仏の優劣を競うつもりは全くないので、私はこのブログでは可能な限り客観的な事実のみを書こうと気を配った。そして、両大仏の差異を比較し見つめることでこの国の宗教史的変遷に想いを馳せることができた。

 奈良の大仏は「仏教とは何か」「仏教による国威統一を図る」という目的から発した、国主導による歴史的偉業だった。それから約1080年の時を経て、一地方都市の美濃の国で資金も工事も、そして何よりも大仏の功徳にあやかろうという発願も民間主導で成就した軌跡は、日本における仏教の浸透・深化を如実に物語っているのではないか。

 岐阜大仏はその製造工法から「籠大仏」「はりぼて大仏」と奈良や鎌倉の大仏と比べて評価が低く表現されることもある。しかし、金銅や木材、石材で造らなくとも、竹や紙によってこれだけの大きさの、そして今日でも現存している堅固な仏像は技術の進歩により、費用も工期も効率的、今でいうコスパよく造ることができたと言える。そして、大仏を主に構成するのは只の紙ではない、経典だ。仏像はただのフィギュアではない。仏同様の霊力やご利益を表さなければならず、その力を仏の教えそのものである経典によって形造られたこの大仏は、仏教伝来から幾星霜を経て人々が仏教の本質をよく理解したその証左になるのではないだろうか。

 私を温かく見下ろす岐阜大仏に見つめられながら、日本の仏教の深化が見えてきた。

写真では面長に見える尊顔だが、
これも私たちへ眼差しを注ぐために
俯かれたため。
大仏の胎内には平安時代作と推定される
木造薬師如来が秘仏として安置されている。
著者撮影。


参考文献:

パンフレット『日本三大仏 岐阜大仏殿 黄檗宗金鳳山正法寺』

鷹巣純『紙貼りの大仏―正法寺「釈迦如来坐像」、いわゆる“岐阜大仏”について』

(季刊『怪 vol.0052』2018年、カドカワより) 

 

※InstagramやXでも藤江文丞の名前で蔵書や映画の感想などを投稿しています。

 

トリビュート・鳥山明

 映画『SAND LAND』上映のニュースが飛び込んだとき、私はふと思った。「鳥山明版の『火の鳥』が見てみたい」と。ここで言う『火の鳥』とは手塚治虫原作作品を鳥山明にリメイクしてほしいという意味ではない。手塚治虫がライフワークとした『火の鳥』に当たるような作品を鳥山明に作ってほしい。それを読みたいという意味だ。現在の漫画・アニメ界への鳥山明の影響を考慮すれば、彼が新作を作ると言ったとき、誰がそれを無視できようか。界王拳4倍かめはめ波級の圧倒的破壊力で社会を席巻した鳥山明なら集英社に限らず、どこの出版社でも、ドラゴンボールをかき集めてでも、自社で売りたいはずだ。そんな絶対的な人気があるからこそ、鳥山明自身が描きたいものを、描きたいだけ、漫画にできるはず。そのとき、鳥山が何を描くのか読みたかった。

 そんな想いを巡らしていたちょうどその頃にYouTubeで少年ジャンプ伝説の編集者・Dr.マシリトこと鳥嶋和彦の動画を視聴する。鳥山明の漫画家デビューの話、アラレちゃん連載終了の理由とドラゴンボール開始までのエピソードなどをその動画で知る。元々は地元の広告代理店でイラストレーターとして働いていたが社会生活に馴染めず(具体的には朝起きられなかった)、職を辞して無職で無為に時間を過ごしていた。時間つぶしの喫茶店で手にした少年ジャンプの作品募集に応募したのがデビューのきっかけだった。

 つまり漫画家になりたくてなったわけではなく、いわば食うために自分ができることで稼ごうとした消極的な理由で漫画家の扉を開く。私はそのエピソードを知ることで、鳥山明版ライフワークとなる作品は無理だと思った。「そもそも描きたいものがないのでは」と私は感じた。しかし、それを私は批判したり、絶望する気は毛頭ない。

 なぜなら彼が最も得意として描きたかったイラストレーター的な珠玉の作品をそこかしこに描きながら、漫画を紡いでくれたのだから。鳥山の真骨頂と呼んでいいイラストはコミックスの扉絵や各話の巻頭ページイラスト、少年ジャンプの表紙などで見ることができた。そんなイラストたちによって私たちはまるで仙豆を口にしたような満足感を味わいながら、鳥山の描く漫画に没入した。鳥山のデビューに至る経緯とデビュー後の苦闘、そして彼の作品がもたらした社会的熱狂の只中に身を置くことができた幸福を合わせ考えると、私の「もっと新作が読みたい」という願望を遥かに上回って、胸がパチパチするほどのただただ感謝の念しかない。

 最後に私と時代を同じく生きた少年ジャンプ購読者が「そうそう」と頷いてくれるエピソードを。絶大の人気を誇った少年ジャンプだったので毎週月曜日販売をフライングして販売するお店が当時あった。そこは本屋だけではなく、酒屋さんや煙草屋さんだったり(コンビニなるものが世の中にでるかでないかの時代)。そんなお店を我々小学生はガキんちょなりに「ルールを守ってないんだろうな」という“気”を感じていた。本屋の場合だと、店頭や本棚、ラックにはなく、レジの人に「ジャンプありますか?」と土曜日聞くとレジの下にある棚からこっそり出して売ってくれた(確か土曜日だった気がする)。

 そして、月曜日より早く入手できた当時の子どもは月曜日終日ヒーローになれた。周りから「ドラゴンボールどうなった?」と聞かれるのだ。そこはバトル漫画の金字塔の『ドラゴンボール』。返事として「めっちゃベジータ強えぇ!」。そのたった一言で私たちは十二分に満足できた、そんな稀有な作品だった。

鳥山明『DRAGON BALL 17』1989年、集英社

安土城で見つけた信長と職人の攻防

 安土城の説明は省略させていただく。旅先で訪ねたときの話を書きたい。

 本能寺の変後、次の天下の趨勢を決める明智光秀羽柴秀吉が争う山崎の戦い後まもなく、安土城は消失してしまう。理由は諸説あるが今だによくわかっていない。現在、城跡には天守閣跡まで続く大手道と呼ばれる石段があり、観光客が登れるように整備されている。その道に沿って建てられた信長配下の武将屋敷跡を訪ねるだけでもその規模が感じられ、往時を偲ばせてくれる。安土城東口・料金所より入城して登り始めてすぐ、秀吉の屋敷跡があり、「前田利家邸はここ」「織田信忠邸はあそこ」と当時の織田家の序列が感じられた。また、安土の山の木々や鳥のさえずり、季節によっては蝉の声、秋虫の音などが、過ぎ去った時の長さによって育まれた自然のように思えて興をそそられる。

絢爛豪華な安土城だったからこそ、天守が復元されない城跡として残っていることに 個人的には趣を感じる。 Photo 写真AC https://www.photo-ac.com/ Special thanks to あけびさん

 安土城のメインストリートとも呼べる大手道は幅が広く、6mもある。その石段を登り始めると、端に何やら看板が置かれているのを目にした。看板には「石仏」と書かれており、簡単な解説が書いているものもあった。その看板の前や横の石段は何やら凸凹して、周囲の石段とは異なる。だが、長い年月の風雨にさらされ摩滅してしまい、何の跡だが判然としない。疑問に思って解説に目を通すと、背筋が冷たくなった。

 

 安土城築城工事の際に石垣や石段の資材が足りないため、周辺の村や町から墓石やら石仏が使用されたと書いてあった。人や馬が行き来する足元の石段に石仏が利用されていたのだ。

 令和に生きる信仰心の薄い自分でも、思わず眉をひそめた。脳裏に浮かんだ言葉は「第六天魔王」。天台宗の総本山の延暦寺を焼き討ちした信長らしい所業だと思った。とはいえ、築城を任されたのは丹羽長秀。信長の指示か、あるいは工期に間に合わせるための長秀の手配で行ったのかはよくわからない。ただいずれにしろ、信長の合理主義かつ神仏と敵対することを恐れない信長の精神性とは何ら矛盾しない石仏の石段に私には感じられた。後になって知ることだが、石材確保のために石仏や墓石、石臼を用いた城はほかにもよくあるそうだ。また、一種の魔除けの意味合いもあるのだとか。

安土城の大手道石段に石仏が敷かれていることは現地で初めて知ったので、本当に驚いた。 Photo 写真AC https://www.photo-ac.com/ Special thanks to あけびさん

 登りながらあることに気付く。所々にある石仏のほとんどが幅広い石段の端。しかも、仏が刻まれていたであろう表面を上にして人の目に見えるようにしてある。これはどうしたことだろう。

 文献資料などで確認できなかったが、私の直感はこう囁いている。石仏が人に踏まれるのが忍びなかった職人ができるだけ通行量の少ない端を選んで施工したのだろう。そして、そこに石仏があることを知らしめるために、敢えて表面を上にした。裏面を上にして仏様を下にして土に埋めて石段に使用すれば、人はただの石として呵責なく踏んで歩くだろう。中央に設置すれば人はそこを避けて通らなければならないし、信長であれば無視して踏み登ってゆくだろう。石仏を端に置き、仏身を天に向けたことは仏への信仰心からなのか、工事をした自分への天罰を恐れてのことか。あるいは職人の手配ではなく、その上長であった管理者による指示かもしれない。

 

 そして私に残された最後の想像の楽しみが「信長はこの石仏に気付いたかどうか」。駕籠か騎馬かで登り降りしたであろう信長が、この端にある仏を目にしたかどうか。注意深い人なので(あったことはないが)、あるいは目ざとく気付いたかもしれない。安土城完成後は隅々まで内覧して目にした機会もあったかと想像もできる。

 さらに、石仏を見たとしたら信長はどう思ったか。苦笑して赦したか、眉一つ動かさず心中に一滴の波紋も残さず無視できたか。彼がどちらでふるまうにしろ、なぜか織田信長という強烈な個性を前にして「信長らしい」と、人は印象を持つであろう。

 

※城に用いられる石仏の背景には諸説あります。

 私の主観と想像を逞しくして書いています。

『空母いぶき』と『鳴かずのカッコウ』の接点

 仰々しくタイトルを付けておきながら、かわぐちかいじの漫画『空母いぶき』と手嶋龍一のインテリジェンス小説『鳴かずのカッコウ』の2冊を読んだ方なら、「接点」が何なのかはすぐにわかるだろう。

 『カッコウ』の主人公は神戸公安調査事務所で働く新人青年。以下は本作のクライマックスになるので、ネタバレになることをご容赦頂きたい。

 神戸を舞台にアメリカと中国が非公開極秘接触をしていた。同盟関係にある日本にも内報せずに。米ソ冷戦時代もそうだったように、対立する超大国同士は不測の事態に備えて公式の政府間だけではない、独自の非公開極秘チャネルを築く必要がある。その動きを日本の公安がキャッチしたという物語だ。

 物語では米中諜報当局が人質交換交渉のためにチャネルを築いたとあるが、それは喫緊の外交問題解決のためであって、この接点は今後の米中交渉に重要な役割を果たすことを想定してのことだ。物語では例を挙げている。

 

「尖閣諸島周辺に中国の漁船が大挙して押しかけて居座っていることはご存じですね。海警局の警備艦も周辺を動き回っています。たとえば、ここに猛烈な台風が来て、中国の漁船が尖閣諸島に上陸したとしましょう。海警局の乗組員も上陸して彼らを保護せざるをえない。そうなれば日本政府はどうしますか」

「そんなことが起きれば、中国側に厳重に抗議して、直ちに退去を求めるでしょう。もしも中国側が拒めば、武力で排除せざるを得なくなります」

「その時、アメリカはどうするか。日本が実効支配する尖閣諸島で日本が中国と戦闘状態に入れば、アメリカは、日米安保の盟約に従って、日本の側に立って戦わざるをえない。しかし、いくら重要な戦略拠点とはいえ、アメリカ国民の大半が名前すら聞いたことのない尖閣諸島を奪還するために中国と干戈を交える、そんな事態はなんとしても避けたいはずです」

「だから米中は密やかなチャネルを開けておきたい。一種の保険として。(後略)」

手嶋龍一「第八章 諜報界の仮面劇」『鳴かずのカッコウ』(2021年、小学館)

 

 この公安当局員と英国諜報部員の問答こそが『いぶき』との接点だ。『空母いぶき』では、中国の漁民に扮した工作員が遭難を装って尖閣諸島に上陸し、日本の海上保安庁の身柄確保を断り、中国海警局の保護を求めるシーンから物語が始まる。出版時期の時系列で言えば、『空母いぶき』の連載が2015年で『カッコウ』より先だ。漫画を読んだ私は「なるほど、そんなリスクもあるのだな」と呑気に感心したものだ。

 この2作品の接点の通り、相手国領土内の住人や民族の保護を目的として軍を派遣したことにより、紛争や戦争のきっかけとなった事案で歴史は塗り固められている。軍事行動を起こすに当たって、人命の救出、人権の保護ほど聞こえの良い大義名分はないのだろう。さらに拡大解釈を施せば民族自決や民族解放運動につながる。

 近現代だけでも、オーストリアやチェコスロバキアのドイツ人の保護を訴え進軍したナチスドイツ、日本の大東亜共栄圏構想も欧米列強から虐げられたアジア民族の開放を謳っている。現在進行中のイスラエルとパレスチナの戦いも先に攻撃したのはハマスとはいえ、イスラエルは人質解放のための戦いを標榜している。

 ロシアによるウクライナ侵攻もこのケースに当てはまる。ウクライナ固有の領土である東部2州の新ロシア派の住民がネオナチによって蹂躙されているというプーチン大統領の主張によって引き起こされた侵攻は2024年2月で丸2年経とうとしている。(正確に言えば、東部2州の要請を受けてロシアは「特別軍事作成」を開始した)

 このように歴史に学ぶのであれば、『空母いぶき』と『鳴かずのカッコウ』の接点はポリティカルフィクション漫画とインテリジェンス小説というジャンルを超えた偶然ではなく、人類史の宿命がもたらした必然であると言えるのではないか。

かわぐちかいじ『空母いぶき(1)』(2015年、小学館)、手嶋龍一『鳴かずのカッコウ』(2021年、小学館) 現在連載中の『空母いぶき GREAT GAME』は今回紹介した『いぶき』のセカンドシーズン。舞台が異なります。 ※InstagramやXでも藤江文丞のアカウントで蔵書や映画の感想などを投稿しています。

仕事には貴賤があるから平等を叫ぼう

 仕事に貴賤を感じてしまう自分が嫌だった。だが、結論から言うと貴賤はある。その貴賤を認めた上で「仕事は平等である」ということをここでは書きたい。「仕事には貴賤がある」ことを否定したいがために、「貴賤がない」と声高に叫ぶこと自体、もう既に「貴賤がある」ことを認めてしまっているようなものだという、言葉遊びのような結論に私は至った。

 例えば、前提として「仕事に貴賤はない」と考えているとする。次に、仮定として「米国大統領と名古屋市市長どちらが貴いのか」と考え、前提を立証しようとする。だが、この2者の貴賤を投げかけた時点でもう既に大統領と市長は事前に比較され、「大統領がエライ」と認識されているのではないか。それはもう貴賤があると認めてしまっている。

 一方で違う例えを挙げるなら河原の「石ころ」とその裏に生えている「苔」。この2者に貴賤は決められない。判断者が何か基準を設けるか、あるいは自分の好き嫌いで勝手に決める。人によって判断は異なるだろう。

 先の大統領と市長の貴賤の問いに対して一般大衆の大多数が「大統領が貴い」と答えるのであれば、その事実を前に「いや、それは間違っている。貴賤はない」と主張するのは綺麗事に過ぎない。だから私は仕事の貴賤を認めるに至った。しかし、それでもなお「仕事は平等である」と私は主張する。それは森博嗣著『「やりがいのある仕事」という幻想』(2013年、朝日新書)という一冊から学ばせてもらった。

 このように書くと紹介した著作には「仕事に貴賤はある」と書いてあるように思われるかもしれないが、その逆で「まえがき」の「職業に貴賤はあるか」という章に「そもそも、職業に貴賤はない」と断定している。その根拠についてはここでは引用しない。また、私が「貴賤はある」と考えた経緯も既に述べた。どちらが正しいかを争うつもりもないし、それは読者それぞれに考えて決めていただきたい。

 ただ、私が学ばせてもらったのは以下の箇所だ。

 

 階級社会というものが世界のどこにでもあって、そこでは自由に職業を選択できない。日本でいえば、かつては武士は武士であるし、農民は農民だった。どんな仕事に就けるかが、差別の対象となっているわけだ。勝手に職業を変えられては、社会の秩序が崩れてしまう、と考えられていた時代だった。

 本当に、つい最近までそうだったのである。(中略)数十年まえまで、そういう社会は世界のどこにでもあった。実は今でも、まだどこにでもあるけれど、先進国では少なくとも憲法というものができて、「人は皆平等である」と定められた。そもそもこのように憲法というものを持ち出さないと守れないほど難しい認識だった証拠でもある。

 森博嗣「第1章 仕事への大いなる勘違い」『「やりがいのある仕事」という幻想』(2013年、朝日新書

 

 大雑把に言えば、「人は皆平等ではない」からわざわざ各国の最高法規憲法に「人権は皆平等だ」と謳っているのだ。「差別」や「貴賤」という言葉は既に現実社会に存在していた古い言葉であり、それに対して「平等」という言葉は従来はなかった新しい言葉として誕生したのではないか。それはおそらく「人権」や「自由」「平等」が叫ばれたフランス革命前後に生まれた言葉であり、概念なのだろう。(「おそらく」「なのだろう」と推定した書き方をしているのは、「平等誕生」は本ブログの趣旨ではないため、詳細に調べることは放棄することを断っておく。歴史の教科書で得た知識の範囲で書かせてもらった。)

 この「平等」という概念が発生した歴史を踏襲して、本ブログのタイトルである『仕事には貴賤があるから平等を叫ぼう』につなげたい。私は「貴賤がない=平等」と考えることができなかった。どうにも理想論に思えたからだ。だが、森博嗣氏の著作をきっかけに納得できたの「貴賤がある→平等」という工程を踏むことだった。いわば「仕事の貴賤観」をそのまま認めた上で、だからこそ平等でなければならないと訓戒することが本当に大切なことだと私は思う。

 『「やりがいのある仕事」という幻想』にもいくつかの職種間での「貴賤がない」例が書かれていたが、極端に言えば社長も新人社員も平等なのだ。それぞれ役割が違う、仕事が違うだけで平等であるべきなのだ。仕事が違えば当然成果が変わるわけで、会社に対する貢献度も異なる。でもそれだけだ。会社の指揮命令系統を明確にするため、上司・部下と階級が決められるわけだが、それは貴賤とは別の話だ。そして、さらに会社業績への貢献度によって給与は決まるべきである。そこにはやはり貴賤は関係ない。例えば社長という椅子に座して何もしない人物であれば、新人社員より給与は低くなければならないと私は考える。

 

 仕事観における「貴賤」の存在をまず自覚すること。そこから「貴賤」を否定して「平等」であることを自らに、周囲に戒めることで社会は今より間違いなく生きやすくなる。会社や仕事、組織を貴賤で捉えるから主導権争いに明け暮れたり、ハラスメント事案、いじめなどにつながるのではないか。平等であれば、互いの仕事に敬意を持つことができる。互いの仕事を尊重できれば双方にとって最適化された工程やコミュニケーションで業績を収めることができるのではないか。

 「仕事の平等」という概念は働く現場や実務だけに有用なのではない。A社・B社・C社と会社規模や業績、企業イメージが異なる中でどこに勤めているかと尋ねたとき、あるいはどこに就・転職したいかを考えたとき、「貴賤」の概念が頭のどこかにありやしないかと。どの会社も同じではないが平等だと理解できれば、本当に自分のやりたいことや自分が大切にしているライフスタイルを基準に会社選びの選択肢が増え、働くことができる。また、各国政府も仕事の平等を守護し育成に努めれば、民間をコントロールし税金を徴収することだけに注力しなくなり、国民主権の政治につながると考えられる。

 自分の上司に対していきなり「あなたと私は平等だ」と宣言しても煙たがられるだけだろうし、実現したければそれこそ革命なり、“倍返し”でも起こさなければならない。だが、少なくとも私は上司や同僚、部下、取引先と接する際には「仕事には貴賤があるから平等でいこう」の精神で働きたいと思っている。

参考文献:森博嗣『「やりがいのある仕事」という幻想』(2013年、朝日新書