Re-FRAME

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トリビュート・鳥山明

 映画『SAND LAND』上映のニュースが飛び込んだとき、私はふと思った。「鳥山明版の『火の鳥』が見てみたい」と。ここで言う『火の鳥』とは手塚治虫原作作品を鳥山明にリメイクしてほしいという意味ではない。手塚治虫がライフワークとした『火の鳥』に当たるような作品を鳥山明に作ってほしい。それを読みたいという意味だ。現在の漫画・アニメ界への鳥山明の影響を考慮すれば、彼が新作を作ると言ったとき、誰がそれを無視できようか。界王拳4倍かめはめ波級の圧倒的破壊力で社会を席巻した鳥山明なら集英社に限らず、どこの出版社でも、ドラゴンボールをかき集めてでも、自社で売りたいはずだ。そんな絶対的な人気があるからこそ、鳥山明自身が描きたいものを、描きたいだけ、漫画にできるはず。そのとき、鳥山が何を描くのか読みたかった。

 そんな想いを巡らしていたちょうどその頃にYouTubeで少年ジャンプ伝説の編集者・Dr.マシリトこと鳥嶋和彦の動画を視聴する。鳥山明の漫画家デビューの話、アラレちゃん連載終了の理由とドラゴンボール開始までのエピソードなどをその動画で知る。元々は地元の広告代理店でイラストレーターとして働いていたが社会生活に馴染めず(具体的には朝起きられなかった)、職を辞して無職で無為に時間を過ごしていた。時間つぶしの喫茶店で手にした少年ジャンプの作品募集に応募したのがデビューのきっかけだった。

 つまり漫画家になりたくてなったわけではなく、いわば食うために自分ができることで稼ごうとした消極的な理由で漫画家の扉を開く。私はそのエピソードを知ることで、鳥山明版ライフワークとなる作品は無理だと思った。「そもそも描きたいものがないのでは」と私は感じた。しかし、それを私は批判したり、絶望する気は毛頭ない。

 なぜなら彼が最も得意として描きたかったイラストレーター的な珠玉の作品をそこかしこに描きながら、漫画を紡いでくれたのだから。鳥山の真骨頂と呼んでいいイラストはコミックスの扉絵や各話の巻頭ページイラスト、少年ジャンプの表紙などで見ることができた。そんなイラストたちによって私たちはまるで仙豆を口にしたような満足感を味わいながら、鳥山の描く漫画に没入した。鳥山のデビューに至る経緯とデビュー後の苦闘、そして彼の作品がもたらした社会的熱狂の只中に身を置くことができた幸福を合わせ考えると、私の「もっと新作が読みたい」という願望を遥かに上回って、胸がパチパチするほどのただただ感謝の念しかない。

 最後に私と時代を同じく生きた少年ジャンプ購読者が「そうそう」と頷いてくれるエピソードを。絶大の人気を誇った少年ジャンプだったので毎週月曜日販売をフライングして販売するお店が当時あった。そこは本屋だけではなく、酒屋さんや煙草屋さんだったり(コンビニなるものが世の中にでるかでないかの時代)。そんなお店を我々小学生はガキんちょなりに「ルールを守ってないんだろうな」という“気”を感じていた。本屋の場合だと、店頭や本棚、ラックにはなく、レジの人に「ジャンプありますか?」と土曜日聞くとレジの下にある棚からこっそり出して売ってくれた(確か土曜日だった気がする)。

 そして、月曜日より早く入手できた当時の子どもは月曜日終日ヒーローになれた。周りから「ドラゴンボールどうなった?」と聞かれるのだ。そこはバトル漫画の金字塔の『ドラゴンボール』。返事として「めっちゃベジータ強えぇ!」。そのたった一言で私たちは十二分に満足できた、そんな稀有な作品だった。

鳥山明DRAGON BALL 17』1989年、集英社