奈良の春日大社を訪れたとき、藤の木がそこかしこに樹生していてふと思った。藤原氏が建てた神社であり、氏神でもある春日大社だから藤を大切にしているのだろう。ではこの藤たちは植えられたものなのか。あるいは生えていたものなのか。いやまてよ。そもそも歴史で学んだ大化の改新の中臣鎌足がどうして藤原に改姓したのか。そして「藤原」という言葉はどこから来たのか。「名前が変わった」ぐらいにしか思わなかった歴史の1ページが、旅に出ると急に細かなところにまで気になることはとても愉快だ。高校時代は日本史ではなく、世界史を専攻したのでよくわからなかった。
一.藤原氏誕生
中臣鎌足が669年10月臨終の際に、時の天皇・天智天皇から大織冠(冠位の最上位、史上鎌足だけが授かった)を授けられ、内大臣に任命、「藤原」の性を賜った。のちの平安の貴族文化の頂点となり、武士が台頭するまでの権勢をほしいままにした藤原氏の誕生だ。
では、どうして「藤原」なのだろうか。それは平城京に遷都される以前の飛鳥時代の,「藤原宮」に由来する。藤原宮とは『日本書紀』に記された当時の皇居を指す。余談になるが、平城京に遷都される前の都として「藤原京」があるが、藤原京は都そのものを指す言葉ではない。当時の文献にこの都を「藤原京」と表記されたことはなく、大正時代に普及・定着した学術用語として後世の私たちは藤原京と呼ぶようになった。
では、藤原宮はどうして「藤原」なのか。『万葉集』にも地名として「藤原」「藤井ヶ原」が記載されており、もうこれ以上追うことは難しいようだ。ただ文献から放れ、自然豊かな奈良の山々に囲まれた古の都の跡地に立てば、山々に見える藤の花、草木の茂る野原が浮かび上がってくるのは私の勝手な想像だろうか。皇子や官僚たちが野遊びに興じる『万葉集』の件、古来歌い継がれてきた藤の花の和歌、そして今も広がる奈良の山々や森、草原が私の想像を生き生きと彩り、逞しくさせる。
春になれば春日大社の奥の御蓋山の森が藤の花で覆われるそうだ。私が訪れたのは初夏だったので花は終わってしまって、見ることは叶わなかった。あるいはそれを目にすることができれば、「だから藤原氏なんだ」と理屈ではなく、合点していたかもしれない。
二.現代にも薫る藤の花
藤原氏の家紋は「下り藤」であり、春日大社の巫女の簪にも藤を模した飾りがある。藤原氏の権勢とともに春日大社がますます壮麗になるなかで、藤の花を利用してブランディングされていったのだろう。昭和7年には日本初の植物園として藤の園を中心とした萬葉植物園もある。時代の変遷によって華やかになる春日大社だが、その原風景は大和の山々と野原、そして自然の恵みによって自生する藤の花なのだろう。
安藤、伊藤、江藤、加藤、木藤‥藤が付く性は藤原氏に末裔だとか。大和の地で咲いていた藤の花は種々を飛ばして、日本を包み、現代にも息づいている。
<参考文献>
花山院弘匡『宮司が語る御由緒三十話―春日大社のすべて』2016年、中央公論新社
<参考>
春日大社ホームページ
橿原市ホームページ