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姫路を化粧し、将軍喜悦す

 姫路城を訪ねて驚いたのが、2代将軍・徳川秀忠の長女・千姫が一時期この城の姫として過ごしていたこと。7歳で豊臣秀頼と政略結婚した後、大坂夏の陣で戦火の中から救出されたのは有名だ。私自身「歴史好き」を標榜しながら、千姫がその後どうなったか知らなかった。気にもかけなかった。それだけに、城内の案内板で彼女の名を見つけたとき、会ったこともない、生きる時代も違う相手でありながら、不思議と懐かしい気持ちになった。

 千姫が居館とする御殿とは別に、姫路城西の丸に姫がのびのびと過ごせるスペースとして化粧櫓が建てられたのが1618年。大坂夏の陣より3年後のことだ。姫が化粧をする建物だからその名が付いたかと思ったが、それは早合点だった。本多忠刻への輿入れの際、10万石もの化粧料が徳川家から支払われた。化粧櫓の名の由来はその10万石で建てたから。「10万石」という米の値段がどれほどの金額になるのか、現在の私たちにはわかりづらい。その時代時代で石高の価値も異なるだろう。化粧櫓建設に10万石全額使ったかどうかはわからないのだが、ただ10万石でこれだけの規模の建物が建てられるという一つの尺度ができる。建設にあたって既存の西の丸を改修した費用も忘れてはならない。

姫路城・西の丸、化粧櫓。西方廊下の窓から見える男山に千姫天満宮を祀り、朝夕と遥拝した。 Photo 写真AC https://www.photo-ac.com/ Special thanks to Kazuki1983さん

 千姫の夫・本多忠刻徳川四天王本多忠勝の孫にあたる。家康の天下取りに貢献した本多家といよいよ絆を深め、共に幕府を盛り立てる意図での千姫の再婚だった。その本多家が姫路城を任されたことにも戦略的に大きな意味がある。

 徳川幕府にとって仮想敵国は長州の毛利家と薩摩の島津家。関ヶ原の合戦に至る経緯とその勝敗からこの両国は最も警戒しなければならない。江戸に都を置く幕府にとって、西側からの脅威に対して姫路城は重要な防衛ラインの一つだった。そして、その城を任せるに足る大名が本多家というわけだ。

 国宝であり、世界遺産でもある姫路城はその秀麗な外観が強調されがちだが、防衛力という軍事的側面からみても理にかなった最強のお城の一つに数えられる。そこに設けられた化粧櫓もただ姫の遊び部屋だけの目的で建てられたのではなく、有事の際に機能するべく、城の増強をも兼ねている。

 幕府は城の修繕を厳しく取り締まり、事前に届け出るように武家諸法度に定めている。化粧櫓建設に際して、本多家は当然届出を出し、許可を得て着工した。もちろん、秀忠の知るところとなる。幼い頃に親元を離れ、人質として嫁に出し、落城を経験した愛しい娘を思いやっての化粧料10万石。それがこのように使われて、2代将軍はさぞ喜んだのではないかと、姫路城西の丸で私は思った。

姫路城は1993年(平成5年)から日本初の世界遺産に登録。2023年12月から登録30周年を迎える。 Photo 写真AC https://www.photo-ac.com/ Special thanks to クックうちゃん